幸福な日々






何が起きたのか、わからない。
カミュの凍気を我が身に受け、その身を更に氷河に撃たせて、その人の身体は 跡形もなく消え去ってしまった。
ナターシャを救うために。
そして、ナターシャは生き返り、死者の世界から生者の世界に帰ってきた。

本当は、それこそが自然の摂理に反したことなのに。
ナターシャが 本当に“帰る”べき場所は 死者の世界の方だったのに。
アクエリアスの氷河が 自然の摂理に従うことを拒んだから。
アクエリアスの氷河が、ナターシャを失いたくないと、幼い子供のように駄々をこね、無理を言ったから。
だから、あの人の命は失われてしまったのだ。

「パパ!」
ナターシャが、彼女の父の腕の中に戻ってくる。
ナターシャの父は、ナターシャを取り戻した。
抱きしめた小さな身体は温かい。
ナターシャは生きているから。
「パパ、パパ、ありがとう! ナターシャ、死んじゃうかと思ったヨ。パパがナターシャを守ってくれたんダネ。アリガトウ。パパ、大好き!」

もしかしたら 永遠にパパから引き離されていたのかもしれないという予感は、ナターシャの中にもあったのかもしれない。
だが、最悪の事態は免れた。
だから、ナターシャの心は、自身が再び パパの娘に戻れたことに歓喜している。
パパの首に しっかりとしがみつき、自分の生に安堵して、笑顔で、ナターシャは氷河に尋ねてきた。
「パパ、マーマはどこ?」

永遠に失われてしまうかもしれなかった幸福と安心、安全。
取り戻した それらのものが完全であることを、ナターシャは確かめようとしただけだったろう。
『瞬は、急患があって病院に行っているんだ』とか『瞬は、ナターシャが帰ってくるのを、家で待っている』とか、そんな答えを手に入れて、完全に安心したかっただけなのだ、ナターシャは。
だが、氷河は、ナターシャが望む答えを彼女に与えてやめることはできなかった。
その事実を知らせたら、ナターシャは何と言うだろう。
『どうして そんなことをしたの !? 』と、父を責めるのか、『パパも一生懸命 頑張ったのなら、仕方ないよね』と言って、水瓶座の黄金聖闘士を許してくれるのか。

瞬が許してくれるだろうことはわかっていた。
瞬は許すに決まっていた。
瞬は、アイザックより心得ているのだ。
水瓶座の黄金聖闘士の性格から価値観まで、すべてを、瞬は知っている。
知っていて、認め、受け入れている。
だから、瞬は許してくれるだろう。
優しく温かく微笑して、許してくれる。

ナターシャの父が 瞬の存在を犠牲にしても、ナターシャの命を失うまいとしたこと。
そうしたことを、ナターシャの父が後悔することも、瞬はわかっている。
後悔して、自分を責め、だが 結局は忘れて 立ち直ることも、瞬は知っている。
そうして、ナターシャの父は ナターシャと共に幸せに暮らしていくと、瞬は思っているのだろうか。

ナターシャのためだったのだ。
小さくて、非力で、愛らしい少女。
アクエリアスの氷河が幸せでいるために なくてはならない存在。
だから――仕方がなかったのだ。
誰かが犠牲にならなければ、ナターシャの命を守ることはできなかった。
一人の男の そんな我儘を叶えるために生じる犠牲は、身内の中に収めておかなければならない。
まして、その“一人の男”が 地上の平和を守るために戦うことを生業とするアテナの聖闘士なのである。
アテナの聖闘士の そんな我儘に、一般人を巻き込み、迷惑をかけるわけにはいかない。
瞬しかいなかったのだ。

瞬、すまない。
本当に、すまない。
俺は いつも、おまえに迷惑をかけるばかりだ。
おまえに頼り、おまえに甘え、おまえに守られ、おまえを犠牲にし、俺の幸福は いつも おまえの愛と犠牲の上にあった。
今度も――最後の最後まで。

瞬、すまない。
感謝する。
おまえの犠牲に感謝する。
ありがとう。
俺は、おまえに守ってもらった俺の幸せを大切にする。
ありがとう、瞬。






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