清らかな人間になれば、地上に平和と愛をもたらす世界の救い主になる。 だが、その清らかさが失われてしまえば、地上世界を闇で覆い、命という命を消し去る滅びの主となるだろう。 それが、エティオピア王家の第二王子の生誕に際して下された神託だった。 その神託がエティオピア王家にもたらされた日以降――つまり、瞬と名付けられた王子の誕生日以降――神託の解釈を巡って、エティオピアの神官や学者たちの間では、“清らか”という言葉の意味と解釈について侃々諤々の討論が為されることになったのである。 『清らかな人間になれば』と神託は言う。 それは、生まれたばかりの王子が、今は まだ清らかではないということ。この世に生まれ落ちたばかりで罪を知らない赤ん坊は、まだ“清らか”ではないということである。 『清らかな人間になれば、世界の救い主になるが、その清らかさが失われれば、滅びの主となる』という神託は、『清らかな人間にならなければ、瞬王子は 地上に平和と愛をもたらす世界の救い主にならない代わりに、(失う“清らかさ”がないのだから)清らかさが失われることもなく、地上世界を闇で覆う滅びの主にもならない』ということなのか。 もし そうなのであれば、瞬王子には、滅びの主となる危険性はあるにしても、清らかに育てて 世界の救い主になってもらうのがいいのか、逆に、滅びの主となる危険を完全に排除するために 清らかにならないように育てた方がいいのか。 『清らかになる』という言い方があり得るのなら、神託の言う“清らかさ”は肉体の清らかさではなく、心の清らかさのみを指し、肉体面での純潔は重要ではないのか。 肉体の純潔に関しては、王子が思春期を迎える頃までに結論を出せば 間に合うだろう。 差し当たっての問題は、王子をどのように育てるのが、王子自身のため、エティオピア王家のため、エティオピア王国のため、世界のためによいのか――ということである。 “清らかに”か、それとも“適度に卑俗に”か。 それは、王子一人だけの問題ではなく、エティオピア王国や全世界の未来にも関わることなので、神官や学者たちは、神託の解釈 及び 王子の養育方針について、極めて慎重に、極めて真剣に考え、それこそ 口角泡を飛ばして議論し合った。 しかし、なにしろ前例のない神託、いつまで経っても結論が出ない。 そのため、エティオピア国王夫妻は、その答えが出るまでは、普通に―― 一国の(世継ぎではない)王子として普通に――瞬を育てることにしたのである。 “その答えが出るまでは、普通に”。 ところが、その答えは、1年経っても出なかった。 2年経っても出なかった。 3年経っても出ないまま。 その3年の間に、瞬は言葉を話すようになり、物心がつき、ものを考えることができるようになった――なってしまった。 学者や宗教家には、そんなふうに 実際には何の役に立たない理論だけを弄ぶ頭でっかちな人間が多いのである。 答えが出るのを待たずに しっかり第二王子を養育した国王夫妻は、実際家の実践主義者と言えるだろう。 瞬は とても愛くるしい顔立ちをした子供だった。男子の身で、花や妖精にたとえられるほど。 瞬王子に出会った者は、誰もが その愛らしさに目を細め、顔を ほころばさずにいられない。 実際、 瞬は誰からも愛される王子だった。 人は、素直で優しく清らかな心を持つから、多くの人に愛されるのか、それとも、多くの人に愛されるから、素直で優しく清らかな心を持つ者になるのか。 今になって 答えが出ても、もはや どうにもならなかった。 現に、瞬は、素直で優しく清らかな心を持つ王子に育ってしまったのだ。 神託が語った通りに。 この事実は変えられない。 とはいえ、瞬が素直で優しく清らかな心を持つ王子に育ったこと自体には、どんな問題もない。 問題は、その清らかさが失われた時のことを語る神託だった。 その清らかさが失われてしまった時、瞬は、地上世界を闇で覆い、命という命を消し去る滅びの主となる――という。 こうなれば、瞬を世界の滅びの主にしないために、地上世界のすべての命を守るために、瞬がその清らかさを失わないようにするしかない。 そのためには、どうすればいいのか。 どのような場合に、人の心は清らかでなくなるのか。 神官や学者たちに尋ねたところで、答えは返ってこなかったろう。 その答えを知る者は、この地上世界には一人もいないのかもしれない。 それでも、瞬を愛する者たちは 懸命に考えて、とりあえず、瞬に醜いものや汚れたものを見せないよう、細心の注意を払うことにしたのである。 『この薪が燃え尽きる時、彼は死ぬだろう』と予言された我が子の命を守るために、運命の三女神が炉に投げ入れた薪の燃えさしを、必死に火の中から取り出したメレアグロスの母のように。 |