氷河がエティオピアの王城で暮らすことになったのは、彼が6歳の時。 ただ一人の肉親だった母が死んで 天涯孤独の身になった氷河を エティオピアの王城に引き取ってくれたのは、エティオピアの王妃――瞬王子の母だった。 氷河の母の父が 王家に嫁する前のエティオピア王妃の 歴史の家庭教師をしていたことがあり、氷河の母とエティオピア王妃は 少女の頃に机を並べて学んだ学友同士だったのだ。 恩師の孫であり、幼馴染みの学友の忘れ形見でもある氷河を、エティオピア王妃は、我が子の学友 兼 遊び相手として、王城に引き取ってくれたのである。 それは、王族どころか貴族ですらない 天涯孤独の少年に与えられる待遇としては 破格のものだった。 エティオピア王妃は、2歳年長の氷河の母を、実の姉のように慕っていたらしい。 いずれ武人になるにしても、為政者として 王を補佐する者になるとしても、学者や芸術家になるにしても――氷河が どの分野に進むにしても――エティオピアの第二王子である瞬と同じ教育を受けていれば、その才能を摘むようなことにはなるまい。 歳の近い友人が側にいることは、瞬のためにもなるだろう。 エティオピア王妃は そう考えて、氷河を瞬の“お友だち”として エティオピア王城に招き、城内に氷河の住まいを用意してくれたのだった。 氷河がエティオピアの王城に引き取られて数年後、瞬の父であるエティオピア国王が病で崩御。 エティオピア王家の第一王子――つまり、瞬の兄―― 一輝が エティオピアの王位に就いた。 その1年後、夫の後を追うように王妃も他界。 まだ十代の若すぎるエティオピア国王は、彼の治世の最初の1年は 母を摂政として共同統治を行なっていたのだが、母が亡くなると親政を開始した。 王位に就いて1年が経っていたとはいえ、親政を始めるには まだ十二分に若すぎる王である。 若すぎる王の親政が可能だったのは、皮肉なことだが、エティオピアが 瞬という爆弾を抱えていたからだったかもしれない。 もちろん、一輝は、彼が王となるための教育を受けていた。 王国と王家に忠誠を誓った家臣たちも揃っていた。 それでも、一輝が、若くして手に入れた権力への気負いによる暴走、 性急に成果を求める若い君主に ありがちな名誉欲による暴走に及ばなかったのは、前代未聞の神託を受けた幼い弟を守り、祖国と世界を守らなければならないと思う責任感ゆえ。 そして、その責任感が生む慎重さゆえのことだったろう。 家臣たちが 若すぎる王を軽んじることなく、造反や反逆に及ぶこともなく、若き王に協力的だったのも、瞬に下された神託があったから。 瞬は いつ爆発するか わからない爆弾だったが、それは、火山の噴火や地震等の天災とは異なり、人間の力で制御できる危険であり、脅威だった。 自国に その脅威のあることが、エティオピアの若き王と家臣たちを 慎重に、冷静に、賢明にしたのである。 神託が語ったように、“清らかになって”しまった瞬。 その清らかさが損なわれることのないよう、瞬の父と母は――父母の死後は兄である一輝が――醜いものや汚れたもの、人の心を曇らせる可能性のあるものを、瞬に見せないように細心の注意を払っていた。 しかし、人が、醜いものや汚れたもの、心を曇らせる可能性のあるものを全く見ずにいることができるだろうか。 人は、美しいものや清らかなもの、心を明るく晴れやかにするものだけを見て生きていることはできない。 どれほど周囲の人間が気を遣っても、それは無理なことだった。 皮肉なことに、瞬に、醜いものや汚れたもの、心を曇らせる可能性のあるものを見せないように努めていた両親の死は、瞬の心に 深い悲しみをもたらした。 王城で瞬の身のまわりの世話をしている者たちも――人は常に 清らかな思いだけを抱いて生きているわけではない。 城の外、国の外で起きている戦いや騒乱の事実は、隠そうとしても 瞬の耳まで伝わってくる。 どれほど周囲の大人が用心しても、子供は 美しく清らかなものだけを見て育つことはできないのだ。 だが、瞬は清らかな人間に育ったし、長じてからも その清らかさが損なわれることはなかった。 それは、幼い頃から 常に氷河が瞬と共にいたからだったかもしれない。 瞬の側に 氷河がいたから――瞬が一人ではなかったから。 とはいっても、氷河個人は 特段 清らかな少年だったわけではない。 氷河自身は、母が亡くなってからエティオピア王城に引き取られるまでの半年の間に、多くの人間の利己主義と無慈悲を 散々見せつけられて、少々ニヒリズムの入った少年になってしまっていた。 だからこそ、氷河には エティオピア王妃や瞬の優しさの価値がわかったのだろう。 氷河は、特に瞬が好きで、瞬に優しく接した。 瞬は、大人の利己主義や無慈悲とは対極にある存在で、可愛らしく、氷河に対しては ただただ好意と優しさだけで接してくれた。 氷河は、そんな瞬を好きにならずにいられず、自分が好きになった瞬が変わってしまうことのないよう、日々 努めたのである。 瞬の周囲で、悲しいこと、苦しいこと、つらいこと、理不尽と感じるようなことが起きたり、瞬が 優しく善良とはいえないような人物に出会うようなことがあると、氷河は すぐに瞬の心を慰撫した。 瞬は、現実の理不尽や残酷に絶望する前に、『この世界には ひどい人もいるかもしれないが、氷河のように優しい人もいる』と、思うことができる。 瞬の悲しみや 傷心は、氷河によって すぐに慰撫され、瞬が心に負った傷は、すぐに氷河によって癒されるのだ。 そうしたことの積み重ねで、瞬の心は 清らかになっていったのだった。 そうなれば、瞬の周囲の人間は、瞬のその清らかさが失われ、瞬が地上世界を滅ぼす破滅の主となる事態を阻まなければならなくなる。 その件に関しては、亡き両親から瞬の行く末を託された、彼等の長子であり、瞬の兄であり、この世界における瞬の唯一の血縁であり、エティオピア王国の王でもある一輝が、最も重い責任を負っていただろう。 だが、一輝は、その件に関しては、実は あまり心配してはいなかったのである。 瞬は 綺麗なだけの花ではなかったから。 瞬は、清らかで優しい心の持ち主ではあったが、無知な人間ではなかったのだ。 汚れを知らないのではなく、汚れを浄化して“清らかになった”人間だった。 瞬は、つまり、強い人間だったのだ。 自分は王としての務めに忙しく、行き届かない点はある。 四六時中 瞬を見守っていてやることはできない。 王として国を守ることで 瞬を守り、瞬を守ることで 世界を守るのが自分の務めだと、一輝は思っていた。 兄が側にいられない分は、氷河が――瞬が生きていることに絶望して 世界や人を憎んだり恨んだりすることがないよう、氷河が瞬を守ってくれていると、一輝は信じていたのだ。 氷河は、一輝のその信頼を裏切ったわけではなかったろう。 一輝に、そして 瞬の亡き母に託された思いに応え、任された務めを立派に果たしていたのだ、氷河は。 問題は、氷河が 一輝やエティオピア王妃に託されたもの以上の思いを 瞬に抱き、任された務め以上の務めを瞬のために果たして(?)しまったことだった。 |