瞬の心からの望みを知る真の同志は自分の方だと思えば、鬱陶しくはあるが恐ろしくはないストーカーも、さほど気に障らなくなる。
折りしも、時刻は 6時30分。氷河の店の開店時刻である。
氷河は、一度カウンターを出て、扉に掛かっている『 Closed 』のプレートを『 open 』に裏返した。
店内に戻り、改めて 瞬のあとを追ってきたストーカー医師の顔を見ると、氷河は 我知らず、右の口角だけを上げて 少々歪んだ笑みを作ってしまった。

「何です」
無表情も恐いが、笑顔はもっと恐い――というのが、一般人の一般的な氷河の人物評である。
図々しく傍若無人と思っていたのに、まるで常識を備えた一般人のように――堂草医師は、初めて見る氷河の笑顔(のようなもの)に、少しばかり 怖気づいたようだった。
『礼儀を知らない図々しいストーカーの分際で無礼な』と、氷河は胸中密かに、堂草医師の礼を失した常識を冷笑したのである。
堂草医師を 怯ませた氷河の微笑は、実は思い出し笑いだった。

「貴様と同じようなことを言っている独身主義の女が、最近 ウチに通ってきているんだ。いや、逆か。あっちは後世に優秀な遺伝子を残すことの重要性を説いてまわっているんだから。貴様とは プレートの裏表のような――正反対だが、同じプレート。――金曜だから来るかもしれん」
氷河が言う、堂草医師とは1枚のプレートの裏と表のような女性に、瞬は心当たりがあった。

吟子(ぎんこ)さん?」
瞬が尋ねると、氷河が頷く。
「瞬先生も知ってる女性なんですか?」
自分だけ蚊帳の外なのが癪だったのか、女性だというだけで敵陣営の戦士と思ったのか、堂草医師の眉は 半分不安げ、半分勝ち気に曇り歪んだ。

「聡明で、やり手で、とてもチャーミングな女性ですよ。人類の未来に関わるお仕事をしている」
「聡明で、やり手? モンローではなく、ココ・シャネルかジャクリーン・オナシスタイプの女性ですか? 裏切らないでくださいよ、瞬先輩。お歴々相手に、僕一人では 到底 戦い抜けない」
「そんなんじゃないですよ」
「ほんとですか」
体格は瞬より優れているのに、『瞬先生』が『瞬先輩』になると、堂草医師は 妙に甘えた口調になる。

氷河は、瞬の後輩を、改めて、目を(すが)めて 見やった。
堂草医師が 1、2年で恋人を変えること自体は、相手も成人なのであれば、部外者があれこれ言うことではないと思う。
それこそ、好きにすればいい。
しかし、瞬に甘える男は許せない。
それが許されるのは、水瓶座の黄金聖闘士のみ。
その権利を侵害されて、氷河は機嫌を悪くした。

「開店後も そこに居座るつもりなら、何かオーダーしろ。何も飲まなくても、チャージ料は取るぞ」
この無礼で図々しいストーカーは、バーのルールとマナーを知っているのか。
もしかすると初心者相手に、氷河の声は刺々しくなった。
『何か かっこいい店』と評された時点で、その可能性に思い至ってはいたが、堂草医師はバーで飲むのは、これが初めてのことらしい。
氷河の刺々しい声より、初めての場所の初めてのルールに、彼は身体を緊張させたようだった。

「僕は、お酒は、食事を不味くしないワインが飲めれば それでいいというレベルの人間で、カクテルなんて、ほとんど知識はありませんよ。……水割りを作ってもらうことはできるんでしょうか」
「ああ」
「すみません。詰まらない客で。勉強します」
堂草医師は、意外や謙虚に――客だというのに 軽く氷河に頭を下げてきた。
恰好を気にして 知ったかぶりをする客よりは、好感を持てる。
瞬に甘える男が 徹底して嫌な男でないことに、氷河は逆に苛立った。

「酒は、勉強して飲むものじゃない」
「そうそう。氷河の言う通りですよ。それに、水割りっていうのは、作るのが とても難しいんだそうですよ。氷河のお店には、ウイスキーだけで50種類近くのお酒が置いてあるそうなんですが、まず その中から お客さんが好みそうなウィスキーを選ばなきゃならない。氷の量と水の量も すごく微妙らしいですし、作り方も、グラスに氷を入れて、ウイスキーを注いで、マドラーで13回半ステア、融けた分の氷を足して、水を追加して、更に3回半ステア――だったかな。水割りが最も美味しくなる量というのがあって、その量から 水が1CC多すぎても駄目、少なすぎても駄目」
「何です、その13回半というのは。14回じゃ駄目なんですか」
「駄目に決まっている!」
不愛想なバーテンダーに代わって、せっかく瞬が丁寧に説明してやったというのに、その親切を無にする堂草医師の間抜けな質問。
氷河は堂草医師に抱いた好意を帳消しにして、低く怒鳴った。

初心者ストーカー医師が、身体を縮こまらせる。
執り成すのは、(一応 客である)瞬の仕事だった。
「氷の融け具合いがちょうどいいところで ステアをやめないと、氷が融けすぎて水っぽくなってしまうんだそうです。グラスを出されたら、10秒以内に最初の一口を飲んでください。いちばん美味しいところを飲み損なってしまいますから」
『いちばん美味しいところを飲まないと、その水割りを作った男が 一層機嫌を悪くしますから』ということまでは、瞬は口にしなかった。
が、氷河に 13回半と3回半のステアを重ねて作った水割りを出された堂草医師は、ほとんど間を置かずに、その水割りの最も美味しいところを口に含んだ。
そうしてから、
「美味い」
という、素朴に過ぎる感想を呟く。
『当たりまえだ』と声に出して言わないのは、バーテンダーとしてのマナーと矜持ゆえ。
氷河が口にしなかった『当たりまえだ』を、瞬が また、丁寧に解説し始める。

「氷河の店は、氷も美味しいんです。特製の純氷を使ってるの。技術も かなりのレベルらしくて、通の方々の評価も高いんです。僕は ほとんど下戸のようなものなので、どこが そんなにすごいのか、よく わかっていないんですけどね」
「いや、これは通い詰めますよ。美味しい。僕が これまで飲んでいた水割りは何だったんだって、誰彼構わず問い詰めたくなるくらい、美味い」
「ありがとうございます」
「……瞬先生がお礼を言うんですか」
自分史上 最も美味しい水割りに感動し興奮していたようだった堂草医師が、ふいに醒めた目になる。
堂草医師は、この店のバーテンダーが言うべき『ありがとうございます』を(一応 客である)瞬が言うことに 合点がいかず、不満らしい。

『それはおかしい』と、彼は声に出して言おうとしたのかもしれない。
だが、彼は、その不満を声にして 瞬たちに訴えることはできなかった。
彼が その言葉を声に出そうとした、まさに その瞬間、
「お出ましだ」
彼と裏表一対を成すプレートの女性が 颯爽と店内に入ってきたから。






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