鉄紺色のパンツスーツに、同色のハイヒール。
鉄製の定規を当てて切ったかのように まっすぐな線を描いている漆黒の前下がりボブ。
お出ましになったのは、見るからに 頭が切れそうな、バリバリのキャリアウーマン。
やり手のキャリアウーマンのステレオタイプから外れているのは、黒縁の眼鏡を掛けていないところだろうか。
それでなくても シャープな印象が、無駄のない きびきびした所作と 歪みのない顔の造作によって、一層 強められていた。

「私が 一番乗りだと思ったのに」
彼女は堂草医師を見て、瞬に そう言った。
本日最初の客になるつもりで来店したのに、堂草医師のせいで2番目になってしまった――と、吟子女史はご不満らしい。
瞬は客としてカウントしていない。
「吟子さん、こんにちは。彼は僕の同僚なんです。堂草さん」
瞬に堂草医師を紹介されると、吟子は、
「瞬先生の? なら、仕方ないわね」
と言いながら、カウンターの瞬の隣りの席に着いた。

『私が一番乗りになれないのが、この店のマスターである氷河の身内同然の瞬が連れてきた人のせいなのであれば、それは仕方がないわね』が『瞬先生の? なら、仕方ないわね』になるのは、吟子の それが ほぼ独り言だからである。
独り言を わざわざ他人に理解されるように言うようなことを、彼女はしないのだ。

「堂草先生、こちらが、さっき氷河が言っていた、堂草先生に似ているようで真逆かもしれない吟子さんです」
瞬の発言が 吟子のそれと対照的に説明的なのは、それが独り言ではないからである。
「年商10億の企業の社長様だ」
氷河が付け加えた吟子の公開情報に、堂草医師は目をみはった。

「まだ20代ですよね? いったい何をやらかして、そんな企業の社長に収まっているんです」
堂草医師の その質問は、余人が勝手に答えられるものではなかった。
瞬と氷河は口をつぐんだ。
隠す必要はないと判断したらしい吟子が、自分の会社の業務内容を、堂草医師に知らせる。
「デンマークの精子バンクと、日本のユーザーの紹介仲介調停業よ。ちなみに、私は32。マスター、マルガリータをちょうだい。環境のせいなのか、食べ物のせいなのか、昨今の日本人男性の精子は質が悪くて」

「精子の紹介仲介……」
それは、医師とは 医療分野のお仲間なのか、それとも、医師の医療行為とは真逆と言うべき仕事なのか。
精子バンクの管理運営ではなく、紹介仲介調停業というところで、堂草医師は判断しきれなかったようだった。
だが、バーの客同士という関係の二人にとって、それぞれの仕事が同業種なのか異業種なのかということは、全く重要な問題ではない。

「僕は結婚制度に賛同できない 独身主義者ですよ。精子バンクは 子供を持ちたい人たちのためのものでしょう。僕と彼女の、どこが似ているんですか」
堂草医師から その質問が出ることを、氷河は もちろん見越していた。
吟子の前に、ライムを飾ったマルガリータを置き、『どうぞ』とは言わずに、
「恋愛感情有限説に基づく独身主義」
と言う。

その際の氷河の視線で、吟子は、自身のポリシーの説明を求められていることを察したらしい。
彼女は、出されたマルガリータを一口、グラスをまわして更に一口 飲んでから、おもむろに氷河のリクエストの消化に取りかかった。

「恋というのは、神経伝達物質ドーパミンの放出によって、3年間だけ、誰かと一緒にいたいと思う仕組みよ。その仕組みができたのは、子供が小さいうちは、男性に狩りをしてもらって、外敵から母子を守ってもらわなければならなかった数万年前。当時は、子供の生存率が低かったから、両親は一人の子供を全力で守るより たくさんの子供を産む方が、種の保存という観点では効率的だったのね。ところが、人間の子供は、他の大多数の動物と違って、2歳で一人立ちは無理。両親は子供が一人立ちできるようになるまで、恋は冷めているのに、一緒にいなければならない。そんなの不自然――いいえ、不自然どころか地獄でしょう。結婚なんて、飽きて好きじゃなくなった特定の個人と 死ぬまで一緒にいなければならない反自然の拷問システム。3年を4年にすることはできても、一生は無理。永遠なんて、もっと無理」

一気に そこまで言って、10億円プレイヤーは、マルガリータのグラスをまわして、白い半透明の酒を また一口飲んだ。
彼女は、演説に熱中するあまり、カクテルの美味しいところを飲み逃して バーテンダーの機嫌を損ねるヘマはしない客であるようだった。
「お説、ご尤もです」
恋愛感情3年限界説を、独身主義を貫くための盾にしている堂草医師としては、吟子の演説には全面的に賛同するしかない。
立場上、彼は、10億円プレイヤーに頷き返した。

「そもそも3年の内に、子供ができなかったら、どうなるの。人間は、他の動物と違って、交尾すれば必ず子供ができるわけじゃない。最近は、老いも若きも男たちの精液の出来が悪くて、精子の量も運動量も低下の一途を辿っている。精子のDNAの損傷率も上がっている」
だから、高品質の保証付き精子の紹介仲介調停業という彼女の仕事が、多くの女性やカップルに必要とされるらしい。
ストレス、睡眠不足、スマホ依存に起因する現代の男性の精子の劣化は世界的な傾向で、その件は、堂草医師も 医師の一人として憂えていた。
もちろん、医師であるから、精子バンクに頼るより、劣化している精子の改善に努めることを推奨せざるを得ないのだが。

「昔は、世の中は、結婚したい女と結婚したくない男で あふれていた。特に日本はそうだった。でも、今は逆。今、世の中にいるのは、経済力のない男と、経済力があるなら一人でいる方が楽なことを知っている女。経済力だけが問題ではないにしろ、そういう社会で、恋愛に永続性はないとなったら、優秀な遺伝子を持つ精子を手に入れて、才能ある我が子を育てる方が、女性は有意義な人生を送れるでしょう。恋愛感情は3年だけど、人間の子供への愛は(たち)が悪いほど長く続く。もちろん、私の顧客は経済力のある女性、経済力のある夫婦だけよ。結婚したくないけど子供は欲しい、経済的に自立している女性が半分、夫に不妊の原因がある ご夫婦が半分、あとは、高く売れそうな精子を持っている男性。優秀な遺伝子は お高いし、受精も体外受精や顕微受精となったら、かなりのお金と時間がかかるもの。どうしたって、顧客は富裕層に限られるわ。――以上が、私の独身主義の理由と仕事の説明。何か ご質問は」

彼女のマルガリータは残り少ない。
それを見て、堂草医師は、急いで自分の前にあるグラスの水割りを減らしにかかった。
時間が経つと、確かに味が変わる。
それでも十分に、この店の水割りは、堂草医師にとっては自分史上最高の水割りだった。

「精子バンクのくだりに関しては、職業柄、コメントを控えさせていただきますが、恋愛感情3年限界説には ほぼ同意見です。永遠の愛なんていう美しい幻想を抱くから、人間は失望するんだ」
「……ええ、ほんと」
医師という心強い賛同者を得たにもかかわらず、吟子は あまり嬉しそうではなかった、
吟子の そんな様子を見て、むしろ堂草医師の方が嬉しそうな顔になる。
「僕は、ちょうど その3年が切れたところで」
自分のグラスを持って、彼は、吟子の隣りの席に移動した。
そして、彼女の耳許に 小声で、
「マスター狙い?」
と囁く。

返事は聞かなくてもわかっている。
堂草医師は、吟子の答えを待たなかった。
「僕は、そういう趣味があるわけではないんですが、瞬先生が大好きなんです。それで、今日は、瞬先生のあとを追いかけて来たんですが、次の3年は吟子さんでもいいな」
声の音量を通常レベルに戻し、冗談口調で告げる。
それが冗談でないことを、吟子は感じ取ったようだった。
恋愛感情3年限界説を唱えながら、永遠を夢見る――堂草医師と吟子は、真の意味で、同志だったのだ。






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