同じ職場の人間が瞬のストーカーをやめてくれるのなら、これほど喜ばしいことはない。
そう言わんばかりの勢いで、ヴィディアムーのバーテンダーは、吟子を食事に誘った堂草医師の後押しをしてくれた。
半ば追い出されるようにして氷河の店を出た堂草医師が押上を離れ、吟子を銀座まで連れ出したのは、少しでも氷河の店から離れた方が 彼女の口が軽くなるだろうと思ったから。
とはいえ、堂草医師は、10億円プレイヤーに本心を語らせるために、まず彼自身が 自らの本心を、彼女に告白しなければならなかったのであるが。

「高望みだということも、決して叶わぬ思いだということもわかっている。そもそも、瞬先生は僕と同性で、瞬先生に何かを望む方がおかしいということはわかっているんだ。だが、それでも、学生の頃から、瞬先輩は僕の憧れの人だった。その憧れが、優秀な同性の先輩への憧れとは、微妙に違うんだ。3年どころか、初めて会った時から かれこれ10年、僕は この厄介な憧れを持て余し続けている」
「……」
今日 知り合ったばかりの異性に、同性への長い片思いの事実を打ち明けてくるのは、語る相手を 二度と会うことのない行きずりと思っているからか、あるいは、油断や同情を誘って、3年限定の新しいパートナーを得るための手管なのか。
吟子は、そこが掴めず、それゆえに 彼女の恋敵への憧れを語る男への警戒心を 解くことができずにいた。

「10年経っても冷める気配が見えないところを見ると、僕の瞬先輩への憧れは、いわゆる恋愛感情とは違うものなのかもしれない。なにしろ、瞬先輩は 非の打ちどころのない人で――まず、頭がいい。記憶力もいいし、頭の回転も速い。洞察力があり、応用力もあり、人の気持ちを的確に推し量ることもできる。善良で、だから優しい。なのに、自分の価値には無頓着で鈍感。自分が誰かに特別に好かれているとか、憧れられているとか、そんなことには、瞬先輩は全く気付かない」
「肝心の“美貌”が抜けてるわよ。大抵の女が太刀打ちできない清楚な美貌」
吟子は、堂草医師の重大な見落としを指摘したつもりだった。
しかし、堂草医師には、それは見落としではなかったのである。

「それは僕だって、以前は、いったい どうやって瞬先輩は、あの清らかな姿と印象を いつまでも維持していられるのかと不思議に思っていましたが、実際に 瞬先輩は 浅ましい欲や汚れを持っていないんですから……。心が姿を作っているのだと思えば、美貌自体は瞬先輩の重要な美点ではないんですよ。瞬先生は問診が的確で確実で、僕の判断ミスや見落としを着実に拾ってくれるんです。これまで 僕が瞬先生の優秀さに どれだけ助けられてきたか。そうなるともう、外見の良し悪しなんて、まるで気にならなくなりますよ。瞬先輩は 本当に素晴らしい人なんだ。それが、どうしてあんな――」

職業に貴賤はないと思っている。
ある人間に 生涯最高の水割りを供することができるなら、それは優れた技術と才能あってこその偉大な仕事なのかもしれないとも思う。
それでも、堂草医師は言わずにいられなかったのだ。
「バーテンダーなんかと」
と。

言わずにいられないから言った その言葉は、図らずも吟子への挑発になってしまったらしい。
恋愛感情3年限界説の信奉者である10億円プレイヤーは、堂草医師への警戒を解いたわけではなかったろうが、ついに その沈黙を破った。
そして、反撃に出る。
彼女の反撃は、やり手の10億円プレイヤーにしては 受動的で、まるで白馬の王子様に出会ってしまった夢見る少女のそれのようだった。

「マスターは、絶望的に愛想がなくて、一見冷淡に見えるけど、本当は優しいのよ。のっぴきならない窮地に立っている人間には、ちゃんと手を差しのべてくれる。私、以前、仕事で――ある女性に お品を提供した時、そのことを知った彼女の恋人の種無し男に逆恨みされて、ナイフで切りつけられたことがあるの。夫でもない男、深酒と喫煙、不規則な生活と運動不足による脂肪過多で、役に立たないものしか持っていない最低男よ。自分の不摂生の結果を私のせいにするなんて、とんだ逆切れ男。その男の凶器から、マスターは私を庇って守ってくれた。ナイフを振り回す錯乱男を 軽く いなして、完全に翻弄してた。私を背後に庇って、あの種無し男を叩きのめしてくれた時のマスターの背中、私は一生 忘れないわね」
和食のいいところは、個室で 会席膳を頼むと、料理の皿の出し下げが頻繁にない点である。
吟子が語る本心は、外部から入る邪魔で中断されることはなかった。

「身体能力、運動能力は最高。判断力、決断力もある。しかも、あの逆切れ男が 再度暴挙に及ばないように、あの種無し男に 瞬先生を紹介して、メンタルと体質の両方の改善を指導させてくれたの。あの逆切れ男、瞬先生に ぼうっとなって、去勢された馬みたいに大人しくなったって話よ。マスターが一見 不愛想で とっつきにくいのは、最後まで責任を持てないことで 他人に中途半端な お節介を焼きたくないから。人と関わりを持つなら、最後まで責任を持つ。あの外見からは想像もできないほど律儀で生真面目で――誠実な人なのよ、マスターは」

重い口を、いったん開くと、10億円プレイヤーは なかなかの熱弁家だった。
そうして 互いの本音を語り合ってから やっと、堂草医師は 本題に入ることができたのである。
堂草医師が吟子を食事に誘ったのは、つまり、
「マスターと瞬先生は恋人同士なのか?」
という質問を発するためだった。

当の二人に 直接、その質問を ぶつける度胸はない。
その度胸を持てたとしても、二人が答えてくれるとは限らない。
答えてくれたとしても、それが真実とは限らない。嘘は言わないだろうが、ごまかされるかもしれない。
そして、もし、『その通りだ』という答えを二人に返されたら、リアクションに困る。衝撃が大きすぎて、馬鹿な言動に及び、醜態をさらしてしまうかもしれない。
――等々のことを考えて、堂草医師は、第三者から あの二人に関する情報を得ようとしたのだ。
残念ながら、期待して誘った10億円プレイヤーも、その正答は知らないようだった。

「親友以上の関係だとは思うけど、恋人かどうかは……。マスターと瞬先生が恋人同士だとしたら、ドーパミン3年効果は とっくに切れているはずでしょう。二人は幼馴染みで、20年を軽く超えるほど長い付き合いだと聞いてるわ」
「20年か……」
3年を超えると、恋は賞味期限切れ。
人間は、自然を意思の力で捻じ伏せてきた生き物だが、恋は意思ではない――恋は、人間の中にある、意思の力では支配できない自然である。
叶わぬ恋、実らぬ恋には 3年限界説が適用されず、だから自分は“優しく清らかな瞬先輩”に10年 憧れ続けてこれたのだとしたら、20年以上の月日を共に過ごしてきた あの二人もそうなのか――。

「瞬先輩より綺麗で聡明な人は無理だろうから、せめて、瞬先輩くらい優しくて気遣いのできる人を見付けようと、3年どころか1年単位で 幾人もの女性と付き合ってみたのに、“瞬先輩より優しくて気遣いができる人”さえ、世の中には存在しないんだ」
「……あなたみたいなのを、女の敵っていうのよ」
蔑むように、吐き出すように言って、吟子は 堂草医師を睨みつけた。
「でも、ドーパミン3年効果の適用外で、ずっと同じ人を思い続けていられるのなら、叶わぬ恋、実らぬ恋っていうのも、ロマンチックでいいかもしれない」
仕事で社会的に認められる成功を成し遂げている人間は、恋には成果を求めず 夢を見ていられる余裕があるのかもしれない。
10億円プレイヤーに睨みつけられた新米勤務医は、そう思った。

「私たちは、独身主義者なのじゃなく、ただ恋に妥協できないだけの完全主義者なのかもしれないわね。恋愛感情3年限界説も、本当に好きな人となら克服できる自然だと思っているのよ。完璧な恋を実現し、冷酷な自然を克服するためには、完璧な恋人がパートナーである必要があると思っている」
「完璧主義と言えば聞こえはいいが、理想主義者、非実際家、夢想家、つまりは ただの馬鹿」
茶化すように言った堂草医師を、吟子は鼻で笑った。
「今の世の中、恋に馬鹿でいられるのは、成功者の特権よ」
さすがに 成功者は言うことが違う。
堂草医師は 恐れ入って、
「さすが、余裕」
と、言葉だけで平伏して見せた。

「3年を永遠に。人類の飽くなき挑戦というところか」
そうして二人の人間は、互いの健闘を祈り、自身の健闘を誓ったのだった。






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