「理事長が、おまえの卒業に合わせて、キックボクシング部を廃部にすることを画策しているようだ。沙織お嬢様が、12月の予算委員会のために、キックボクシング部の部費と部室を他の部にまわすことを前提にした予算案を作成している」
紫龍がキックボクシング部の部室にいた一輝、氷河、星矢の許に、その危惧すべき情報を運んできたのは、10月も終わりかけた ある日の放課後のことだった。

城戸学園高校では、毎年12月に次年度の部費の配分を決める予算委員会が開催される。
予算案は 学園側と生徒会側から提出され、実際に予算委員会で各部の代表に開示されるのは、その二つの予算案を調整したものになる。
特段の事情がない限り、この調整済みの予算案に変更が入ることはなかった。

ちなみに、紫龍の言う“理事長”と“沙織お嬢様”は同一人物。
城戸学園高校では、学園創立者 城戸光政の孫娘であり、学園の1学年に籍を置く生徒でもある城戸沙織が、理事長を兼ねているのだ。
そして 彼女は、学園のほとんど すべての生徒たちが存在意義を認めているキックボクシング部の存在意義を 頭から否定し、キックボクシング部を廃部にして、120名の幽霊部員を成仏させることを 自らの学校運営の目標にしている、実に厄介な人物だった。

「あの高慢ちき女、最近 大人しいから、廃部は諦めたかと思っていたのに、ホルスタインだけあって、食えない女だ」
紫龍が もたらした情報に、一輝が 忌々しげに舌打ちをする。
『ホルスタイン』は 胸が豊かな女性を表わす俗語だが、一輝が そういう表現を用いるのは、彼が性差別主義者だからではない。
そうではなく、彼が その言葉を 肉体的欠陥を あげつらう言葉ではないと思っているからである。

そして、それを聞いた氷河が、
「ホルスタインの肉は、脂肪が少なくて美味いと思うが」
と言ったのは、肉体的欠陥ではないにしろ、女性特有の肉体的特徴を、称賛とは言い難い発言の中で言及することは性差別と取られて、危険だと思うから。
差別行為というものは、それを差別と認識していない人間が最も犯しやすい過ちだということを、彼がよく知っているからだった。
『金髪』ですら、言い方によっては、差別用語になることもあるのだ。まして、『ホルスタイン』は。
他人の目や耳のあるところで、一輝が そんなことを口にし、その事実を沙織に知られるようなことがあったなら、彼女は、キックボクシング部部長の性差別的発言を キックボクシング部廃部の理由として利用しかねない。
氷河は そうなることを危惧したのだ。

「おまえ、もしかして、沙織さんみたいなのがタイプなのか?」
そうではないことを承知の上で、紫龍が氷河に そう尋ねるのも、肉体的欠陥への言及と取られかねない事柄を、別の次元の事柄で ごまかし、一輝の失言を なかったことにするためである。
部室にいるのは。一輝、紫龍、氷河、星矢の4人だけ。
一輝のホルスタイン発言の言葉尻を捉えて、攻撃してくるような人間は一人もいなかったのであるが。

「食う気になるか。御免被る。俺が好きなのは、優しく包容力のある聖母タイプ。ああいう 女傑タイプは、俺のいちばん嫌いな ――」
「あー、はいはい。愛しのマーマ、マーマ」
『ホルスタイン』は差別用語で、『マーマ以外全員失格』は差別用語にはならない不思議。
おかしな話だと思いながら、星矢はホルスタイン話に落ちをつけて、議題を元に戻した。

「一生徒が理事長を兼ねてるってのが困りもんだよな。フツー、ありえないだろ。ラーメン屋の親父と客を、同じ人間がやるようなもんだ」
その“ありえない”ことが“ある”のが、城戸学園高校である。
現に そうなのだから仕方がない。
『監督 兼 プレイヤーなど、どこの世界にも ざらにいる』という 滅茶苦茶な理由で、学園の創立者 城戸光政は、学校法人城戸学園高等学校の経営を 未成年の孫娘に任せている。
ありえなさで言うなら、一輝がキックボクシング部を作った理由が そもそも、かなりありえないものだった。

『ボクシングやレスリングだと、インターハイや国体に出場することを強要されるだろう。それで、対戦相手を殺してしまったら、対戦相手や その家族が気の毒だ。だからといって、対戦相手を殺さないように力を抑えて戦うのは、相手に対して失礼だ』
というのが、一輝のキックボクシング部創部の理由だったのだ。
だが、自由に身体を鍛えることのできる場所と施設は欲しい――というのが。
それから、2年。半年後に卒業を控えた今、一輝がキックボクシング部の存続に こだわるのは、キックボクシング部に所属する120名の部員の嘆願ゆえ、だったが。
“力ある生徒が いじめを許さない”という体制は、ある意味、究極のいじめ問題解決策だったのだ。
キックボクシング部は、今では、城戸学園高校の平和のために なくてはならない組織になっているのである。






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