心の瞳






初めての客ではないが、常連というほど 足しげく長期に渡って通ってきてくれているわけでもない客。
つまり、中途半端に 店に馴染んだ(つもりになっている)客に多いらしい。
そして、どういうわけか、週に一人くらいは必ず現れるらしい。
バーテンダーは、客の愚痴を聞いてくれる人間、時には 悩める客に人生についての助言を与えてくれる存在――と思い込んでいる客が。

『そんなことがバーテンダーの仕事であるはずがないだろう!』
と氷河は言うが、客に相談事を持ちかけるバーテンダーというのも、かなり非常識な存在なのではないだろうか。
しかも、そのバーテンダーが、つい1週間ほど前までは、寡黙で生活臭のないクール・ビューティ、近寄り難く、凄みすら感じられる恐い男――と評判を取っていた人物で、彼が客に持ちかけている相談事の内容が、
「ナターシャが 俺に懐いてくれないんだ……!」
という、ほぼ泣き言なのだから、もはや 非常識以前。
どれほど優しく寛大な客でも、そんなバーテンダーには バーテンダー失格の評価を下すに決まっていた。

幸か不幸か、クール・ビューティの泣き言が 逆に不気味に感じられるらしく、氷河のバーの客たちは呆れることさえできずにいるようだったが。
美味い酒を提供するという、バーテンダーの最低限の義務は果たしていたので、店の客たちもクレームをつけにくかったのかもしれない。

「悩み事があるのか、不安を感じているのか、悲しいのか、苦しいのか――ナターシャは いつも、何か物言いたげに 切なそうな目で、俺を見ているんだ。訳を打ち明けてくれるのを待っているんだが、一向に その気配を見せてくれない」
「大人とは違うんだから、待ってるだけじゃ駄目だよ」
「しかし、悩みがあるなら相談してくれだの、心配事があるなら打ち明けてくれだの、しつこく詮索したら、うざがられるのではないか」
「まさか。思春期 真っ只中の女の子なら、大人の干渉を鬱陶しがることもあるかもしれないけど、ナターシャちゃんの歳で それは考えられないよ。ナターシャちゃんは まだ小学校にも入っていない小さな女の子なんだから」
「だから、接し方がわからないんだーっ!」
「氷河、落ち着いて。氷河が そんな大声を上げたら、お客様がびっくりするよ」

瞬に注意された氷河が、カウンターの中で、一文字に唇を引き結ぶ。
その顔は、間違いなく、『仕事より娘の方が大事』と思っている顔だった。
だが、さすがに、その思いを この場で言葉にすることはしない。
確かに子供ではないのだが、大人になりきれているとは言い難い氷河の対応に、瞬は切なく吐息した。

氷河は幼い頃、マーマを失ってから、大人たちに 冷酷に扱われ続け、大人の作る社会に迫害され続けていた。
そんな氷河にとって、大人の干渉は つらく苦しいもの――嫌なものでしかなかったのだろう。
マーマ以外の優しい大人は、せいぜいカミュくらいのもので、しかし、そのカミュは、冷酷な大人たちよりも 過酷な修行を幼い子供に課する大人だった。
カミュと同じように接したら、ナターシャの心身を傷付けてしまうことには、氷河も考え及んでいるのだ。
冷酷な大人と 優しく厳しい大人しか知らない氷河の、これは笑い事ではなく、深刻な悩み相談なのである。

それが、氷河だけの悩みなら、瞬も “優しく厳しい仲間”というスタンスを守ろうとしたかもしれないが、氷河の悩み相談はナターシャに関わること――小さな子供に関わること。
それは、優しさの上にも優しさを重ねて、更に優しく解決しなければならないことだった。
「明日の日曜、お休みだから、氷河の家に行くよ」
「瞬、すまん。おまえだけが頼りだ」
おそらく、その言葉に嘘はない。
氷河が頼れば、救いの手を差しのべてくれる人はいくらでもいるのだが、氷河が頼れる相手は彼の仲間しかいないのだ。
その不器用さが可愛くて、放っておけない。
氷河は、恐ろしく甘え下手なのに、(たち)が悪いほど甘え上手な男だった。






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