その日、瞬は、日勤の定時に病院を出て帰宅、仕事に出掛ける氷河と入れ替わりで ナターシャの世話を引き継ぐ予定にしていた。 ところが、そろそろ夕方の5時をまわるという頃に 急患が運び込まれ、脳か心臓か、あるいは別の原因があるのか、倒れた原因を特定できないと、救急医療室から救援を求められ、瞬は当初の予定の変更を余儀なくされた。 もっとも、そういう場合は、氷河が 店に行く途中で病院に寄り、院内保育と学童保育を兼ねた院内の保育室にナターシャを預けていくという暗黙のルールがあり、予定の時刻に瞬が帰宅しない時点で、氷河は速やかに 本日のスケジュールを予備のルートに変更したのである。 急患の当座の対処を終えた瞬が 保育室に向かったのは6時前。 「ナターシャちゃん。僕の仕事、もう少しかかるんだ。終わるまで、ここで待っててくれる?」 ナターシャは慣れたもので、 「ウン。ナターシャ、いい子で待ってるヨ。マーマ、お仕事、頑張ってネ!」 と、快く瞬を職場に送り返してくれた。 それが、今から1時間前のことである。 天才作曲家の両親と違って、我が子の一生に関わる重大な問題は抱えていなかったが、瞬は いい子で待っているナターシャの許に早く行ってやりたかった。 光が丘病院の院内保育室は、1日24時間、盆も正月も休みなく、年中無休で運営されている。 眼科からの依頼をどうしたものかと考えながら、瞬が保育室に入っていくと、そこには夜勤と準夜勤の医師や看護師の子供たちが10人ほどいて、積み木で遊んだり、不思議な体勢で眠ったりしていた。 ナターシャが、見知らぬ男の子と一緒にいる。 ナターシャよりは少し年上だろうか。 まだ小学校には入っていない、幼稚園の年長さんといったところ。 子供らしい丸みのない痩せた身体は、運動好きだからではなく、運動をしないから食欲もないため――のようだった。 男の子は、ナターシャの顔や髪に触っている――ナターシャが触らせている。 思ってもいなかった光景に驚いて、ナターシャの名を呼び損ねてしまった瞬の側に、保育士の女性が近付いてきた。 「瞬先生。急患の方は大丈夫だったんですか」 「ええ。肥満細胞症のアナフィラキシーショックだったんです。もう落ち着きました。あの……もしかして、うちのナターシャと一緒にいるのは――」 「あれが、噂の盲目の天才作曲家、縦山斗音くんですよ。広い特別室に 元気な子供を一人で置くのは何かと危ないので、毎日 昼食後と夕食後に1時間ずつ、こちらに来てもらってるんです。まあ、最初は、勝手に一人で院内を歩き回られて 怪我でもされたら大変だから――と考えてのことだったらしいんですが、あの子、どこにいてもパソコン相手に音で遊んでいるばかりで……」 説明が小声になるのは、ナターシャに瞬のお迎えを知らせて、彼女と天才作曲家の交流を中断させたくないという優しさから生じる気遣いではなく、天才作曲家の機嫌を損ねて面倒を起こしたくないという考えから出たことのようだった。 天才少年は、大人は ほぼ嫌いで、騒がしい子供も、泣き叫ぶ赤ん坊も好きではないらしい。 つまり、生きている人間全般が嫌いらしい。 人間が出す様々な音が気に障るのかもしれない――と、保育士は、ほとんど愚痴のような口調で瞬にぼやいた。 彼女も、天才作曲家に 露骨に嫌悪の感情を示されたことがあるのかもしれない。 「気難しい人嫌いの斗音くんが、珍しく 自分からナターシャちゃんに近付いていったんで、びっくりしましたよ。目が見えないのに、ナターシャちゃんを見るなり、『綺麗だ』って言って」 「目の見えない斗音くんが、ナターシャちゃんを綺麗だと……?」 盲目の天才作曲家には、目以外に 人を見る力が 備わっているのだろうか。 そうであっても、そうでなくても――どうやら、瞬が説得に乗り出す前に、ナターシャが噂の天才作曲家と仲良くなってしまったらしい。 眼科医の依頼は断ろうと思えば断ることはできる。 が、結局、盲目の少年作曲家とは 何らかの関わりを持つことになりそうだ。 と、瞬は思った。 「彼が手術を嫌がっているので 説得してほしいと頼まれたばかりなんですが、案外、大人がしゃしゃり出ていくより、子供の説得は子供に任せた方がいいのかもしれませんね」 瞬の その思いつきに、保育士の女性は 縦にとも横にともなく首を振った。 「斗音くん、大人はみんな嘘つきだと思い込んでいて、不信感でいっぱいなんですよ。目が見えないから、疑り深くなっているのかもしれません」 人のいい保育士の唇の端が、僅かに歪む。 彼女が 盲目の天才作曲家に憎まれ口を叩かれたのは、まず確実なところである。 盲目の天才作曲家は、子供好きの保育士に こんな表情をさせる子供なのだ。 瞬に説得を依頼してきた眼科医も、幾度も必死に説得を試みて、そのたびに拒否され、最後に 藁にもすがる思いで、瞬の許にやってきたのかもしれない。 『それは僕がしていいことではない』と正論を振りかざすようなことは しない方がいいのかもしれないと、瞬は思った。 |