生きているうちにしておいた方がいい、たった一つのこと






「兄は新しい遺言書を作ったはずなんだ。私は、兄がそれを書くのを、この目で見ていた。当日の日付を書き入れ、署名捺印して、デスクの抽斗に入れるところまで。あれが見付からないと、兄の遺産はすべて、我々兄弟とは血の繋がりがなく、子供もいない兄の妻のものになる。兄の財産のほとんどは、兄が我々の父から受け継いだもので、兄が築いたものではないというのに!」

『たとえ それが事実だったとしても、亡き お父様から受け継いだ財産を減らさなかったのは、あなたのお兄様の努力と才覚なのでは?』と、つい 瞬は言ってしまいそうになったのである。
『あなたは、あなたが お父様から受け継いだものを、ほとんど失ってしまったのでしょう?』と。
瞬が そう言わなかったのは、亡父の遺産――実兄の遺産でもある――に そこまで執着できる中年男性の気持ちがわからなかった――事情を知らなかった――せいもあるが、その男性が 瞬に口を挟む隙を与えてくれなかったせいでもある。

「そう言ったら、兄は、それもそうだと納得して、我々の父の血を受け継いだ私の娘と息子に遺産の半分を遺す遺言書を作ってくれたんだ!」
ところが、その遺言書が見付からない。
だから、その遺言書をどこにしまったのか、兄に訊いてほしい。
と、彼は瞬に依頼してきた――半ば脅すように、懇願してきた――のだ。
彼の兄は、10日も前に亡くなっているというのに。
それも、瞬が勤務している光が丘病院ではなく 他の区の救急病院に、クモ膜下出血で救急搬送された その日のうちに。
つまり、彼は、彼の兄に会ったこともない赤の他人に、彼の兄が 生前 作ったはずの遺言書を どこにしまったのか、訊いてほしいと言っているのだ。
彼の依頼は、あらゆる意味で 非常識極まりないものだった。

先月にも、瞬は 似たような非常識な依頼を受けていた。
40歳になる息子が遺書も残さず自殺した。
経済的に困窮していたわけでも、不治の病に侵されていたわけでもない。
その理由を、死んだ息子に訊いてほしいという還暦を過ぎた夫婦からの頼み。

気の毒とは思ったが、瞬はその依頼を断った。
「ご両親に わからないことが、赤の他人の僕に わかるはずがありません」
と、これ以上ないほど常識的な理由で。
先月 瞬の許に その依頼を持ち込んだ老夫婦は、それで諦めてくれたのだが、この男性は すんなり諦めてくれそうにない。
病院の受付を通さず、門の脇で待ち伏せしていたことから察するに、彼は 自身の行為を 人目にさらすことは恥ずかしく見苦しいものだと自覚はしているようだったが――否、彼は、単に余人に邪魔されたくないだけだったのかもしれない。

「なぜ そんなことを僕に依頼するのか、わかりません」
「あなたは、死んだ人と交信できると聞いた」
「そんなことが できるわけがないでしょう」
「金なら、いくらでも出す」
亡くなったばかりの肉親の遺産を手に入れようと躍起になっているような人間が、金を“いくらでも”出すわけがないし、出せるわけがない。
それは 確実に実行できない口約束である。
彼が 亡父から受け継いだ遺産を ほとんど失った(のであろう)訳が、瞬は 何となく わかったような気がしたのだった。

「お金の問題ではないんです。そんなことはできない。僕は、占い師でもイタコでもないんですよ」
『あなたは、死んだ人と交信できると聞いた』
彼は、どこから そんな話を聞きつけてきたのか。
噂が、自分に感知できる範囲を完全に超えたところまで広まっていることに、瞬は目眩いを覚えていた。

その力を示した人たちに、瞬は確かに口止めをしなかった。
彼等は、そんなことを、得意がって あれこれ言いふらすような人たちには見えなかったから。
もし 洩らしたとしても、それは好意と善意から出たことだと確信できるので、瞬は彼等を恨むこともできなかった。

すべては自業自得だということはわかっている。
あんな力を使ってしまった自分が悪い。
あんなことをしてしまった自分が軽率だったのだ。
だが、あんなことをしなければよかったとは思わない――そのせいで、こんな厄介な依頼人に つきまとわれることになったのだとしても、あんなことをしなければよかったとは思わないのだが。






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