1ヶ月前、宇井戸小夜さんという名の94歳の老婦人が 光が丘病院で肺炎(半ば老衰)で亡くなった。 入院して1週間。 80歳を超えた頃から老人性健忘のきらいはあったが、日常生活に支障はなかったので、施設等には入らず、自宅で、息子夫婦と孫娘と同居していた。 亡くなる2ヶ月前に孫娘が結婚したばかりで、『孫の花嫁姿を見ることができて、もう思い残すことはない』と言っていたというから、自身の生を生き抜いた満足の中での安らかな死だったろう。 危篤になり、家族が病院に駆けつけた時には既に意識が混濁していたが、家族に看取られての最期で、死に顔は安らかだった。 その老婦人の初七日が終わった頃、亡くなった小夜さんの息子夫婦が揃って、光が丘病院まで 瞬を訪ねてきたのだ。 小夜さんは、医師と家族間の親交が深まるほど長期間 入院していたわけではなく、瞬は 大きな手術を執刀したわけでもない。 そんな医師に 患者の家族が 患者の死後、挨拶に来ることは珍しい。 何か心残りや気掛かりでもあるのだろうと察した瞬が、二人を院内のカフェラウンジに誘ったところ、案の定。 小夜さんの一人息子である夫君が、母が亡くなる前に何か言っていなかったか、言っていたとしたら、どんな些細なことでも構わないので教えてほしいと、瞬に依頼してきたのだ。 一人“息子”といっても、既に70代。大人でもあり、老人でもある。 数年前に 現役を引退、現役時代の経験についての講演を頼まれることが多く、週に1度ほど講演旅行に出ているが、現役時代に比べると格段に自由時間が増えたという 小夜さんの一人息子は、 「私は、古い指輪を探しているのです」 と、瞬に打ち明けてきた。 指輪といっても、宝飾品としては ほぼ無価値。 センターストーンは 宝石ではなく、貴石ですらない半貴石。 座に載っている石は月長石――ムーンストーン――愛を伝える石。 小夜さんは、17歳の時、5歳年上の男性と結婚した。 相手は、近所に住んでいた幼い頃からの顔見知りの青年で、仲を取り持ってくれたのは町内の顔役。 新郎は、1週間後に出征することになっていた。 結婚した二人は、共に若く貧しく、高価な宝石など買えるような身の上ではなかった。 だからこそ 新郎の青年は 戦争初期に戦地に送られることになったのだが、町の顔役が 二人の媒酌の労を取ってくれたのも、恵まれているとは言い難い二人の境遇ゆえだったろう。 『僕が 生きて帰ってこれなかったら、小夜さんは 他の人と幸せになってください』 そう言って、精一杯の愛と誠意の証として、夫が残していった指輪。 可憐で かわいそうな花嫁のために、華燭の典を少しでも華やかにすべく、貧しい中、優しい夫が無理をして手に入れた指輪。 小夜さんは、ささやかな結婚式から出征までの1週間で子供を授かり、その子を育てながら、たった1週間だけ夫だった人を 生涯ただ一人の夫として、その一生を生き抜いたのだ。 「母は、生まれたのが娘だったなら、嫁する時に その指輪を娘に伝えたかったのでしょうが、生まれた私は男子でした。しかも、私は何につけても愚図な男で、30半ばまで結婚できなかった。なんとか 結婚して やっと娘ができたはいいが、その娘がまた30半ばまで結婚せず……。娘が幼い頃には、母も、『お嫁に行く時は、この指輪をあげるからね』と、繰り返し娘に言っていたんですが……」 宇井戸氏の声が、少し沈む。 「母は、若い頃は、外出する時には 必ず 父の指輪をつけていたました。ですが、そのうち 全く つけなくなってしまった。私が嫌がったんです。下らぬ見栄を張って、もっと高いものを買ってやるから、そんな安物の指輪を人前でつけてくれるなと、心無いことを言った」 そのため、小夜さんの指輪は 使われることなく、ずっと しまっておかれ、老人性健忘の影響もあって、やがて小夜さんは 大切な指輪を どこにしまったのかを忘れてしまったという。 小夜さんが亡くなる数ヶ月前に結婚式を挙げた 小夜さんの孫娘は、財閥系の某商社に勤めていて、職場結婚。 勤め先は、男性社員が結婚したら まず海外赴任させる会社で、新婚の夫婦は 来月 米国の穀倉地帯に渡ることが決まったらしい。 これまでの例では 最低2年、場合によっては、5、6年は帰ってこれない。 「だからこそ、母の指輪を娘に持たせてやりたいんです。娘は、母に とても可愛がられて、母が大好きでしたし、私を 女手一つで育て上げた母を尊敬していました。一週間だけの夫を一生 慕い続けた母に あやかりたいという気持ちもあるようで、母の指輪と一緒に渡米したいと言っているんです」 「それは……」 それは とても素敵な お話だと言いそうになって、瞬は 慌てて自分の舌を噛んだ。 本当なら、小夜さんは 嫁する孫娘に手ずから指輪を渡すことができていた。 立身出世を遂げた息子が、安物の指輪を恥ずかしく思いさえしなければ。 小夜さんが健忘症にならなければ。 そして、もしかしたら、小夜さんが もう少し長く生きていられたら、あるいは。 それは本当に素敵なエピソードなのだが、小夜さんの家族には悔いの残る“お話”なのだ。 「母は、80を過ぎた頃から、指輪の置き場所を忘れたことすら忘れているような状態でした。ですが、探せば ひょっこり出てくるかもしれないと、今、娘が母の持ち物を探しています。渡米の準備で忙しいはずなのに、諦めきれないらしくて――」 「私は お義母様が亡くなってから、お義母様が使っていらした箪笥に小物入れ、お裁縫箱、オルゴールの中まで確認し、ワードローブの上着やコートのポケットまで探したのですけど……」 小夜さんは芯は強かったが、自己主張の強くない古風な人で、『老いては 子に従え』という婦道を全うし、嫁との関係も良好だったのだろう。 宇井戸夫人の声には、女手一つで自分を育ててくれた母親に心無いことを言った夫君を咎めるような響きがあった。 「お義母様自身も忘れていたものを、家族が探し出すなんて無理なことなのかもしれませんけど、でも、知らずに捨ててしまうのも恐くて、片付けも あまり進まないんです。亡くなる直前に、走馬灯のように記憶が蘇ることがあると聞いたことがあったので、もしかしたらと思い、図々しく押しかけてきてしまいました」 彼等の娘――小夜さんの孫娘の渡米は5日後。 懸命に、親子三人で、探せるところは すべて探し、それでも 見付けられず、本当に 藁にもすがる思いで 瞬の許にやってきたのだろう。 『小夜さんからは、そういったことは何も伺っていません』と答えることが、瞬は心苦しくてならなかったのである。 加齢による物忘れの症状は出ていたが、いわゆる認知症ではなく、小夜さんの意識と判断力は至極 真っ当だったが、入院していた数日間、小夜さんは 至って物静かな病人だった。 静かに微笑んでいることが多かった。 彼女は、死を覚悟し、もしかしたら やっと夫の許に行けると、喜んでいたのかもしれない。 きっと今頃、慕い続けた夫君に、『よく頑張ってくれた』と感謝され 褒めてもらっているのかもしれない。 いつも穏やかに微笑んでいた あの老婦人は、自分のせいで、家族が いつまでも消えない後悔を抱え込むことを喜ばないだろう――。 そう思うから、瞬は、その夜、(全く ためらわなかったわけではないのだが)冥府の王の力を拝借したのである。 意識を冥界に飛ばし、小夜さんを呼ぶと、彼女の心は すぐに瞬の許にやってきた。 指輪のありかを 家族に伝えたいと 瞬が告げると、死んで生前の記憶をすべて取り戻したらしい小夜さんは、その場所を瞬に教えてくれた。 小夜さんの姿は見えない。 だが、彼女の心の傍らに もう一つの心が寄り添っていることが、瞬にはわかった。 彼女は、自身の生を懸命に生き抜いた人間が手にする喜びを、今 その心のすべてで享受している。 瞬は、どんな迷いもなく、そう確信することができたのだった。 翌日、瞬は宇井戸氏の自宅に電話を入れた。 電話に出たのは、宇井戸夫人。 夫君は、亡くなった人の墓の件で外出中らしい。 昨日の今日である。 瞬が何も言わなくても、用向きは わかってくれた。 「あの……小夜さんの遺品の中に 古いアルバムの入っている竹製の行李があると思うのですが」 今時、行李など、実物はおろか言葉すら知らない人間の方が多いだろう。 しかし、それは、小夜さんの遺品の中にあり、ひと通りの確認も済ませたものだったらしい。 宇井戸夫人から『それは何ですか』などという とんちんかんな答えが返ってくることはなかった。 「確かに、竹の行李が一つありました。ですが、中を探しましたけど、古いアルバムや手紙の束の他には何もなかったんです」 「その行李の底に薄い木綿の布が敷いてありませんでした?」 「そういえば、古い敷き布が……」 「それが敷き布ではなく、その……小夜さんが 結婚初夜に着た白襦袢なんだそうです。小夜さんは、その袖の内側に指輪を縫いつけて しまっておいたと――」 『おっしゃっていました』と言わないところが、常識人としての ぎりぎりの分別。 「ちょっと待ってくださいますか。今、娘が、こちらに来ていて、渡米の準備がてら、おばあちゃんの部屋を探しているんです」 期待と希望で興奮しているのか、昨日は『お義母様』だった小夜さんの呼び名が『おばあちゃん』に変わる。 そして、電話を手にしたまま、家の中を移動する気配。 「レイちゃん、その行李の底に敷いてある白い木綿の襦袢の袖の中に――」 探し求めていた宝を ついに見付け、二人は息を呑んだのだろう。 大きな沈黙の音が、電話機越しに瞬の耳に届けられた。 それから、 「あった! おばあちゃんの指輪!」 離れたところから“レイちゃん”の歓喜の声。 「まあ! まあまあ、ほんと! ありました、瞬先生! ありました! ありがとうございます!」 確実に還暦は過ぎている宇井戸夫人の、まるで女子高生のように上擦った声が微笑ましい。 余計な詮索を避けるため、 「よかった。では、これで失礼します」 と言って電話を切ろうとした瞬を、しかし、宇井戸夫人は放してくれなかった。 「切らないでください! どうか、切らないで。どうして わかったんですか。昨日は、何も ご存じないようでしたのに」 「あ、ええ、それは……」 瞬としたことが、万一 そこに指輪がなかった時のための言い逃れは事前に考えていたのに、見付かった時の弁明(?)までは用意していなかった。 咄嗟に、 「夢で――」 という言葉が口を突いて出たのは、へたに現実的で 実際に あり得るような説明をすると、あとあと辻褄合わせに苦労することになり、結局 辻褄を合わせきれなくなるだろうことが目に見えていたからだった。 それくらいなら、最初から、説明のつかない――超自然的な出来事が起きたことにした方がいい。 そう思ったのだ。 「信じなくて構いませんので、信じないでください。僕自身、半信半疑で信じられずにいますから。夢に、小夜さんが出てらして、隠し場所を僕に教えてくれたんです」 電話の向こうで、宇井戸夫人は、言うべき言葉を見付け出せずに困惑した(おそらく)。 瞬は、その隙を衝いて、 「では、お忙しいでしょうから、僕はこれで」 と、急いで電話を切ったのである。 翌日、宇井戸夫妻と その令嬢夫妻――二組の夫婦が、光が丘病院の瞬の許を訪ねてきた。 公立の病院では医師への金品の贈呈は禁止されているので、感謝の気持ちを人数で表そうと思った――とは、宇井戸氏の弁。 四人の男女に、揃って、 「ありがとうございます」 と頭を下げられ、瞬は大いに面食らったのだが(少々 困りもしたのだが)、 「小夜さんも、心から お喜びですよ」 瞬に そう告げられた宇井戸氏の瞳が潤む様を見て、自身の出しゃばりを悔いる気持ちは、瞬の中から消えていった。 もし母の指輪を娘に伝えることができなかったら、彼は生涯 自分の無情を責め続けることになっていたに違いないのだ。 それは、小夜さんの本意ではないだろう。 これでよかったのだと、瞬は思った。 |