小夜さんの指輪の件は これでよかったと 瞬も思ったのだが、その一件が院内で噂の種になってしまったのは困りものだった。 瞬は院内の人間には一言も事情説明をしなかったのだが、宇井戸氏たちが礼に来た際の やりとりを聞いていた看護師たちが、憶測を交えて、その話を院内に広めてくれたのだ。 「瞬先生は、聖母マリアの生まれ変わりか、慈母観音の世を忍ぶ仮の姿だと、専らの評判ですよ」 「まさか」 キリスト教徒からも仏教徒からもクレームを寄せられるような、そんな噂を広めないでほしい。 と、日頃 世話になっている看護部長に言うわけにもいかず、瞬は適当にお茶を濁して その場から逃げようとした。――のだが。 「もし、本当に、瞬先生が亡くなった人と話ができるのなら、ぜひとも 私の亡くなった母に訊いてほしいことがあるんですけど」 不惑も半ば。 分別盛りの看護部長が そんなことが可能だと本気で信じているはずがないとは思うのだが、彼女は やたらと真剣な目で――強い視線で 瞬を掴まえ、瞬に敵前逃亡を許してくれなかった。 看護部長の語るところによると。 彼女の母は、彼女が高校に入学して まもなく、交通事故で亡くなったらしい。 受験勉強から やっと解放され、その日は、彼女の父と弟の好物の煮物の作り方を 母から教えてもらう約束になっていた。 しかし、そのための買い物に出た先で、看護部長の母は事故に巻き込まれ、ほぼ即死。 看護部長は 母の秘伝の味を教えてもらう機会を 永遠に失ってしまったのだ。 「父は言うまでもありませんが、うちの弟が 渋い趣味で、母の作る煮物が大好きだったんですよ。それこそ、カレーより、ハンバーグより、唐揚げより、煮物。ちゃんと教えてもらったことはなかったんですけど、作るところを見ていたことはあるので、それを思い出しながら何度も挑戦してみたんですけど、どうしても母の味にはならない。弟に作ってやることはできず、父も懐かしがるんですけど、作ってあげられない。私の娘にも伝えてやれない。いいところまでいくんですけど、何かが違うんです。それが悲しくて……。何かちょっとしたコツなんでしょうけど」 看護部長の弟は、今年40。 結婚して独立。今は横浜の方にいるのだが、近況報告の電話をよこすたび、必ず その報告の中に『お袋の味は再現できたか』という質問を紛れ込ませてくるらしい。 「母が亡くなったのは、もう30年も前ですよ。呆れたマザコンでしょう」 言葉通りに呆れてはいるのだろうが、40を過ぎた弟のことを、姉として心から案じてもいる看護部長。 いくつになっても――自分の家庭を持つようになっても、母への思慕は消し去り難い息子。 いくつになっても――自分の家庭を持ち、自分の娘を育てるようになっても、とうの昔に独立を果たしている弟の心身を案じずにいられない姉。 看護部長の身辺のあれこれが、自分の身辺のあれこれに重なって、瞬は つい、またしても、本来は使うべきではない力を使ってしまったのだった。 「煮物に使う砂糖を、ザラメに変えてみてください」 もちろん、それで めでたく 看護部長が お袋の味を再現できたとしても――できたとしたら、なおのこと――瞬は その事実を厳に口止めするつもりだった。 ところが、瞬が死者からの伝言を伝えた翌日、瞬が口止めする前に、看護部長は大声で瞬に お袋の味再現成功の報告を始めてしまったのだ。 それも、病院の職員玄関で。 一刻も早く 嬉しい報告をしたかったらしく、看護部長は、職員玄関で瞬の出勤を待ち伏せしていたようだった。 ちょうど 日勤の医師や看護師、職員たちの出勤と、夜勤の医師や看護師たちの退勤が重なる時刻。 つまり、職員玄関を 最も多くの人間が利用する時間帯だった。 「瞬先生! 母の味になったんです! ザラメで! 父が泣いて喜んで、瞬先生に しっかりお礼をしてくるようにと、私、繰り返し繰り返し 言われてきました!」 「あ、それは何よりで……」 「30年も前に亡くなった母の味を憶えている父も私も大概なんですけどね。弟に報告したら、今週末に帰ってくると言い出して……。ここ2年ほどは、会おうと思えば いつでも会えるって言って、正月にも帰ってこなかったのに!」 口止めする隙もあらばこそ。 お袋の味の再現成功の喜びに有頂天になっている看護部長は、興奮した自分の発する大声が 何人もの職員の足を止めていることにすら、気付いていないようだった。 「瞬先生、本当に 死んだ人と交信できるんじゃないですか !? 」 「死んだ人と交信なんて、まさか。ふっと思いついただけです」 「ふっと思いつかないでしょう、普通。砂糖をザラメに替えるなんて。今度から私、瞬先生を お母さんって呼ぼうかしら」 「冗談はやめてください」 冗談を言いながら、看護部長の感謝が心からのものだということは 疑いようがなかった。 彼女の瞳には涙が にじんでいる。 彼女は むしろ、ここで号泣してしまわないために、冗談を言って 感謝の気持ちを ごまかしているのだ。 そんな様子を見せられてしまっては――馬鹿なことをしたとは思うが、後悔はできない。 しなければよかったとは思わない。 問題は、瞬が死者と交信できるという噂が どこまで広まっているのかということだった。 |