「どうして、瞬に あんなことを言ったんだ?」
氷河がナターシャに尋ねたのは、瞬がナターシャの使っていた食器を持ってキッチンに向かい、氷河とナターシャがリビングルームのソファに移動した時。
パパが小声の時は、ナターシャも小声。
ナターシャは、ナターシャの歳の子供にしては珍しく、声を潜める技を身につけた少女だった。
「ナターシャなら、最初にパパのためにできることは何かなって考えるから」

声を小さくする技を完全にマスターしている上、簡潔な説明文の作成もばっちり。
不思議に思ったことを不思議のまま放置せず、答えを見い出そうとする好奇心と向学心はもちろん、自分以外の人間の心を思い遣る心も、ナターシャの内面で 確実に養われている。
瞬の教育と躾は完璧だと、瞬がナターシャのマーマになってくれてよかったと、今更ながらに氷河は心から思った。
その瞬のためにも、ナターシャの疑念と誤解は解いておかなければならない。

「人間には、まず自分に優しい人間と、自分以外の人に優しい人間がいる。まず自分のことを考える人間と、自分以外の人のことを考える人間といってもいい。 瞬は、人のことばかり気にしていて、自分のことは いつも後まわしなんだ。俺とナターシャは、瞬にとって、自分と同じくらい近くにいる存在だから、当然 俺たちも後まわしになる。それは、俺たちが瞬に愛され信じられている証拠なんだ。誇りに思っていい」

もし ナターシャとナターシャの友だちが危険にさらされていたら、瞬は ナターシャではなく、よその家の子供たちを先に助けるだろう。
それは、瞬がナターシャの強さを信じているからで、ナターシャを愛していないからではない。
そんな状況は現出しないに越したことはないが、万一 それが現実のものになった時、ナターシャが瞬の愛を疑うことのないように、氷河は そう告げたのだが、ナターシャの懸念は 自分自身ではなくマーマの上に向いたようだった。

「自分のことは後まわし? マーマはそれでいいの?」
ナターシャの疑念に、氷河は微笑んだ。
自分のことは後まわしで、瞬自身はそれでいい。
それでよくないのは、瞬を愛し大切に思っている者たちの方。
ナターシャは彼女のマーマを愛し大切に思っているのだ。
彼女のパパと同じように。
だから、マーマの身を案じるのである。

「それは大丈夫。俺は瞬とは逆で、俺が大好きな人のことを いちばん最初に考えるからな。瞬のことは、俺とナターシャが いちばんに考えてやればいい」
「ソッカー」
ナターシャは それで得心してくれたようだった。
氷河が 声のボリュームを通常モードに戻す。

「生きている人が生きている人に『大好き』と言うことは、誰にでも簡単にできる。だが、死んでしまった人が生きている人に『大好き』と言ったり、生きている人が死んでしまった人に『大好き』と言うことは、瞬の力を借りでもしないとできない。いちばんいいのは、生きているうちに、たくさん『大好き』を伝えておくことだ」
氷河が そう言い終えるや否や、ナターシャが、
「パパ、大好きー!」
と言って、氷河の首に しがみついてくる。

「ナターシャは 本当に賢いな」
ナターシャの理解の速さに、氷河は 惚れ惚れした。






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