たとえ“フォーマル”を指定されていても“カジュアル”で出掛けていったろうが、結局は何を着て行っても同じだったらしい。
指定されたホテルのエントランスに、指定された時刻の30分も前に、氷河と瞬が一歩 足を踏み入れた途端、そのために待機していたとおぼしきコンシェルジュが 瞬たちの許にやってきて、目的地への案内を始めてくれたのだ。
服装でも招待状でもなく 顔で、判断されたのだとしか思えなかった。

「指名手配写真でも 出まわっていたんですか」
目的階直通のエレベータの籠の中で、瞬がコンシェルジュに尋ねると、彼は、
「大切なお客様ですから」
と、答えになっていない答えを返してきた。

瞬たちが通されたホールには、誰もいなかった。
広さとしては、ファミリーパーティ用クラス。
さほど広くはないが、さらわれた子供の両親と誘拐犯が三人で会談するには十分すぎるほど広い。
壁に大きなスクリーン。
ホールの中央にあるテーブルは、パーティや食事のためのものではなく、会議用。
その会議用大テーブルの脇に、パソコンとプロジェクターが置いてあった。

「お飲み物は、何がよろしいでしょう」
尋ねてくるコンシェルジュに、氷河が、
「俺たちを ここに呼びつけた奴を、大至急」
と命じる。
命じられたコンシェルジュは、
「少々 お待ちくださいませ」
という、これほど芸のない対応があるだろうかと言いたくなるほど ありふれた常套句を残して、部屋を出ていった。
芸のないコンシェルジュは、それでも、客の要望に応えるべく、彼にできる限りの努力はしてくれたのだろう。
指定された時刻より30分も早く約束の場所にやってきていた氷河と瞬を、5分と待たせることなく、“俺たちを ここに呼びつけた奴”が その場に登場したところを見ると。

それは40歳前後の男性だった。
もちろん、見知らぬ男である。
ほとんど黒と言っていいほど濃いグレイのビジネススーツ。
髪も瞳も黒色だが、日本人ではないようだった。
「何者だ」
と氷河が問うと、彼は、流暢な日本語で、隠す様子もなく、この誘拐事件の首謀者であるらしい人物の名を口にした。
「私は、ジェフ・ゲイツバーグの代理人です。ジョン・スミスとでも お呼びください」

ジョン・スミスは、偽名といえば これほど有名な偽名はないというほど有名な偽名である。
自分の名を名乗らない者の話など聞くに値するのか――信用できるのか。
氷河と瞬は、もちろん 彼の自己紹介(?)を疑ったが、しかし、彼がジェフ・ゲイツバーグの代理人だというのは、なかなか信憑性のある説明ではあったのである。

ジェフ・ゲイツバーグ。
それは、滅多に他人に興味を持たない氷河でも知っている“他人の名前”だった。
つまり、頻繁にニュースに登場する人物の名前だった。
直近に接したニュースは、彼が日本のラグジュアリーホテルを買収したというニュース。
すなわち、このホテルのオーナーが、ジェフ・ゲイツバーグに変わったというニュース。
彼ならば、このホテルの中では融通が利く――無理を通すこともできるだろう。

ジェフ・ゲイツバーグは 米国人。
多国籍テクノロジー企業の創業者CEOである。
総資産1000億ドル超―― 10数兆円と言われ、おそらく、現時点で 世界で五指に入る大富豪。
大学在学中に立ち上げたIT企業が驚異的成長を遂げ、20代でフォーブスの世界長者番付に登場し、それ以来一度も 世界の大富豪五傑から外れたことはない。
確か、まだ30代半ばのはずだった。

そのジェフ・ゲイツバーグの代理人と名乗るジョン・スミス氏は、日本語は流暢だったが――言葉の選択も イントネーションも アクセントも、日本国の某公共放送アナウンサー並みに 自然で、標準的で、淀みがなかったが――声と その響きは“微妙”だった。何か、どこかが、自然でない。
「ゲイツバーグが、令嬢を預かっています」
「誘拐の首謀者が 本名を名乗るとは思えないんだが」
「実に尤もな判断です。ですが、ゲイツバーグは、金と情報があれば、大抵のことは片がつくと思っているのです。司法も武力も、自分にとっては脅威ではないと、彼は考えている。自身の犯した犯罪の事実も、彼は金でなかったことにするでしょう。彼は命じるだけで、実際に いかなる行動も起こしていませんし」
ゲイツバーグの代理人は、彼の雇い主を かなり嫌っているらしい。
そんな口振りだった。

「ゲイツバーグ氏が、ナターシャちゃんを誘拐したの? 何のために? あなたはゲイツバーグ氏の仲間ではないの?」
ナターシャをさらったのが 本当にジェフ・ゲイツバーグなのであれば、彼の目的が金であるはずがなかった。
「私はゲイツバーグの代理人――ただの使い走りです。日本語ができるので、抜擢されたようです」
「ナターシャは無事なんだろうな」
「もちろんです。でなかったら、私だって、こんな役は引き受けない」
苦々しい口調で、独り言のように そう言って、ジョン・スミス氏はテーブルの脇にあったパソコンのキーを一つ叩いた。

人工衛星一つ分の電波を独占している 一大テクノロジー企業の支配者(の代理人)ならではの余裕なのか、その所作は実に堂々としたものだった。
その電波で、足がつくとは思っていないのだろう。
実際に その電波を探ることで ナターシャの居場所を突きとめることができるかどうかは わからなかったが、ともかく、ジョン・スミス氏が操作したパソコンは、そのディスプレイにナターシャの姿を映し出してくれたのである。
ジェフ・ゲイツバーグの代理人は、その映像を、プロジェクターで 壁のスクリーンに投影してくれた。

「ナターシャ!」
「ナターシャちゃんっ」
「パパッ! マーマ !! 」
それは録画ではなく、間違いなくリアルタイムの映像だった。
ナターシャが無事でいるのは嘘ではない。
ナターシャが無事なのであれば――無事なまま、彼女を彼女のパパとマーマの許に帰してくれるのであれば、その内容にもよるが、ゲイツバーグの望みを叶えてやってもいいと、氷河と瞬は思ったのである。
ナターシャの無事な姿には、氷河と瞬に そう思わせるだけの価値があった。
もっとも、スクリーンに映っている“今のところ無事な”ナターシャは、考えようによっては 非常に危険な恰好をさせられていたが。

19世紀末ヴィクトリア朝英国の家庭の雰囲気の再現でも狙っているのだろうか。
パニエで大きく膨らませたピンクのミディドレス。
その上に、白いフリルとレースで縁取られたピナフォアエプロン。
右手に抱きかかえているのは大きなテディベアのぬいぐるみ。
部屋の装飾や家具は、アール・ヌーヴォー風。
これをジェフ・ゲイツバーグが自ら選んで着せ、持たせ、設えたというのなら、世界で五指に入る大富豪は、非常に危険な趣味の持ち主(俗に言うロリコン)か、もしくは とんでもない勘違い男である。

「ナターシャちゃん、どこにいるの。ひどい目に会ってない? ちゃんとご飯は食べてる?」
「ん……。ご飯は 食べたいものを食べさせてくれるヨ。玩具も お洋服も たくさんある。……あのね、甘いジュースも好きなだけ飲んでいいっていうから、ナターシャ、いっぱい飲んじゃって……。ゴメンナサイ。でも、ナターシャ、ご飯の前には ちゃんと手を洗って、食べたあとには 歯磨きもちゃんとしてるヨ!」

パパとマーマから引き離されることを“ひどいこと”と言わないのであれば、ナターシャは ひどい目には合っていないようだった。
いつもマーマに『飲みすぎちゃだめ』と言われている甘いジュースをたくさん飲んで、『これは よくないことだ』と罪悪感を抱く程度には、判断力も ちゃんとしている。
ナターシャは、軟禁はされているが、監禁も拘禁もされていない――と言える状況にあるようだった。
だが、衣食住が保証されていれば 人間は幸福でいられるかというと、決して そんなことはないのである。

「パパ、マーマ。いつ お迎えに来てくれるの」
ヴィクトリア朝の裕福なジェントリー階級の家に 銀のスプーンを握りしめて生まれ、何不自由なく育ってきた幸福な少女。
そうとしか思えない佇まいをしているのに、氷河と瞬の お迎えの時を尋ねてくるナターシャの声は、ひどく 不安そうだった。
彼女の不安の原因が“パパとマーマが 側にいないこと”だけなら、瞬たちも ナターシャ奪還の方法を考えるだけで済むのだが――。

「ナターシャちゃん、誰かと一緒にいるの? 恐そうな人?」
何よりもナターシャの身の安全の確認が第一。
そう考えて尋ねた瞬へのナターシャの答えは、意外なものだった。
ナターシャは、
「恐そうじゃない女の人が2人いる」
と答えてきたのだ。
「女の人が2人?」
「うん。ご飯を作ったり、お掃除したり、ナターシャと お喋りしたりしてくれるヨ。デモ、多分、ロボットだと思う。2人共、顔も声もおんなじなの」
「ロボット……」

誘拐犯がジェフ・ゲイツバーグであるなら、へたな人間より有能で優秀なAIを搭載したロボット(アンドロイド)を、自身の犯罪の共犯者にすることくらい、容易にできてしまうだろう。
決して裏切ることのない有能な共犯者。
金で人間を“仲間”にするより、はるかに安全で確実である。
その有能な共犯者が、ナターシャは、違う意味で恐くてならないようだったが。

「このおうち、甘いジュースは飲み放題で、お姉さんたちは いくらでも おかわりをくれるし、サラダのピーマンやセロリを残しても、何にも言われないんダヨ。パパとマーマが早く お迎えに来てくれないと、ナターシャ、すごく悪い子になっちゃうヨ……!」
ナターシャは それが不安でならないらしい。
自分が悪い子になって パパとマーマを悲しませること、そして、パパとマーマに嫌われることが、ナターシャは恐いのだ。

「すぐ! すぐ、行く。どこにいるんだ!」
氷河が『すぐ』と言ったら、それは言葉通りに『すぐ』なのだ。
ナターシャの居場所さえ わかれば、ナターシャのパパとマーマは一瞬で そこに行く。
問題は、ナターシャ自身、自分のいる場所がわかっていないらしいこと。
どこにいるのかと 氷河に問われたナターシャが、自分の現在位置の住所はおろか、手掛かりの一つも 掴めていないらしい様子で、眉根を寄せる。
その不安そうな表情のまま、スクリーンに映るナターシャの姿は停止した。






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