ナターシャの無事を知らせることが このコンタクトの目的で、敵(?)は それ以上の情報を瞬たちに与えるつもりは、今のところ ないようだった。 これでやっと、ナターシャの身柄に関しての交渉を始めることができる。 そう言わんばかりの――妙に気が急いている様子で パソコンのスイッチを切ったジェフ・ゲイツバーグの代理人は 氷河と瞬の方に向き直った。 そうして、ジェフ・ゲイツバーグが ナターシャの身柄の代償として求めているものが何なのかを、彼は、全く事務的な口調で語り始めた。 事務的な口調――ジェフ・ゲイツバーグの代理人は、それを かなり無理をして作っているように、瞬には思われたが。 「ゲイツバーグが言うには――瞬さん。あなたは お若い。若すぎるほどに お若い。20年前のあなたの写真を見ましたが、今のあなたと 何も変わっていない。むしろ 若返っているようにさえ見える」 「……は?」 一瞬―― 否、暫時――彼が何を言ったのか、瞬には理解できなかった――意味がわからなかったのである。 瞬の隣りで、氷河も 眉をひそめている。 ゲイツバーグの代理人の発言の意図するところが、氷河も わかっていないようだった。 委細構わず、ゲイツバーグの代理人は 彼が語るべきことを語り続ける。 「それが あなただけのことなら、あなただけが 異様に若作りなのだ――で済む。しかし、あなたの周囲の方々は 皆、同様に歳をとっていない。氷河さん、紫龍さん、星矢さん、あなたの兄君、グラード財団総帥・城戸沙織。しかも、あの身体中が傷だらけの少女の存在。何か秘密があるのだと、ゲイツバーグは考えた。新陳代謝を止めたのか、細胞の老化を妨げる処理をしたのか、あるいは、老化した細胞を元の若々しい状態に回帰させる方法を編み出したのか。――日本には、月から飛来した月人が 時の帝に不死の薬を送った伝説や、人魚の肉を食べて不死になった尼の伝説があるそうですね」 「――」 言葉を重ねられるほどに、彼が何を言っているのか わからない――わからなくなる。 唖然としている瞬の沈黙を、ジェフ・ゲイツバーグの代理人は 事実と全く違うように理解した(つもりになった)ようだった。 「わかります。全人類が不老不死になったら大変だ。今でさえ既に、この地上に人類は あふれ気味なのだ。人間が誰も死ななくなったら、全人類への食糧の供給は不可能になる。選ばれた者だけを不老不死にする、あなた方のやり方は正しい。あなた方のように美しく、優れた運動能力を持ち、知能も高く、多くの才能に恵まれた人間だけが、“永遠の命”という恩恵にあずかるべきだ。その考えには賛同する。ただ、その仲間に、ゲイツバーグを加えてほしいというだけのことなのです」 そこまで言われて 瞬は(氷河も)やっと、ゲイツバーグの求めるものが何であるのかを理解したのである。 世界で五指に入るほどの財を築いた大富豪は、史上初の中国統一を成し遂げた秦の始皇帝のように、不老不死となることを希求し始めたのだ。 実に 愚かなことに。 愚かなことだと、瞬は思った。 命は、限りある一度きりのものだからこそ 美しく、価値がある。 永遠に死ねない身になることは、永遠の悲嘆を我が身に引き受けることであるし、永遠に生きることができ、かつ 死を選ぶこともできる身になったなら、その人間は 結局 死を望む時が来るに決まっているのだ。 「ゲイツバーグ氏は、何かを誤解しています。僕たちは 普通の人間です。僕たちは普通に老います。そして、もちろん、普通に死ぬ。僕たちの娘を返してください」 小宇宙のせいで多少は―― 一般人より老いのスピードが遅いかもしれないが、アテナの聖闘士は神ではない。 幸いなことに、その命には限りがある。 ジェフ・ゲイツバーグは、瞬たちの人生の一部――10年20年だけを切り取って見て、その10年20年が永遠に続くと勘違いしている。 それは、春に満開の桜の花を1時間だけ眺めて、その花が永遠に満開のままでいると思い込んでしまったような、甚だしい誤解だった。 「あなたの おっしゃる通り、あなた方は不老不死ではないのかもしれない。だが、それならそれで、あなた方が この20年間に ほとんど歳をとっていないことの理由を提示していただきたい。でなければ、私の雇い主は納得しないでしょう。ゲイツバーグは、あなた方は自分たちが不老不死であることを隠そうとするだろうが、決して ごまかされず、その秘密を探ってこいと、私に厳命しました」 ゲイツバーグの代理人の口調は、相変わらず事務的である。 ナターシャの誘拐も ゲイツバーグの望みも、彼には完全に他人事なのだ。 とはいえ、彼――ジョン・スミス氏は、事務的ではあるが 冷めているわけではない。 何が何でもゲイツバーグが納得するだけの成果を手に入れようとする熱意だけは感じる。 瞬は、ジェフ・ゲイツバーグの誤解より、ジェフ・ゲイツバーグの代理人の突き放した情熱の方が 気になった。 「スミスさん。あなたは、あなたの ご主人のしていることは間違っているとは思いませんか。それとも、あなたは――あなたも、あなたのご主人と一緒に不老不死になることを望んでいるんですか」 瞬の問い掛けは、スミス氏の神経に障るものだったらしい。 事務的だった彼の声に 初めて、僅かに、不規則な波が生じる。 「私は不老不死になりたいとは思っていません。これは、私に課せられた任務です。この話を首尾よく まとめられれば、私は1000万ドルの報酬を得られることになっています」 1000万ドル――10数億の報酬は、犯罪に加担しても 手に入れたいという気持ちを人に抱かせるには十分な額だろう。 だが、それにしても――。 ゲイツバーグが 自分の代理人に選ぶだけあって、ジョン・スミス氏は、馬鹿者でも愚か者でもなさそうである。 日本語の流暢さからして、おそらく 他に4、5ヶ国語は自在に使いこなせるだろう。 体格も容姿も並み以上。 卑劣な犯罪に加担しているというのに 下品なところは全く無いし、紛う方なき犯罪の現場で 冷静な態度を(一応)保てているのは、鍛錬した豪胆さゆえだろう。 一般人(聖闘士ではないという意味での一般人)としては、第一級の人間である。 こういう人間は、往々にして 犯罪者を軽蔑するはずだった。 だというのに、なぜ。 ――という瞬の疑念は、まもなく晴れた。 「ですが、不老不死同様、金もどうでもいい。私の雇い主は、私の妻と子を人質にとっています。あなた方との この交渉が成功したら、報酬と共に妻子を返してもらえることになっている。彼は、誰も信用していないのです」 懸命に冷静でいようと努めるスミス氏の告白によって。 彼は、なりふり構っていられなかったのだ。 軽蔑すべき犯罪者の一人に墜ちることにも、こうして事実を告白して 交渉相手の同情を買おうとすることにも、躊躇はない。 愛する家族を取り戻すためになら、幼い少女の命が一つ失われることになっても、そのために 他人の家が崩壊しても構わない。 それが、彼の覚悟なのだ。 「そういうことか」 氷河は、彼に同情したようだった。 同情しないわけにはいかなかったろう。 スミス氏は、今の氷河と 同じ立場に立たされているのだから。 そして、おそらく、スミス氏の妻は、氷河の瞬と違って、夫に愛し愛されるだけの か弱い存在なのだろうから(もちろん、彼の妻としても、子の母としても、一人の人間としても、それで十分なのだが)。 スミス氏の苦境を知らされた瞬――愛し愛されるだけでなく 戦うこともする瞬が、きつく唇を引き結ぶ。 ナターシャだけでなく、スミス氏とスミス氏の家族。 助け出さなければならない存在が増えたせいで、瞬は、問題解決に向けて考慮しなければならないことも増えてしまったのだ。 |