失われぬ時を求めて






大切な お客様が来ることになっていたので、その日、ナターシャは朝から大はりきりだった。
キッチンはバターの甘い匂いでいっぱい。
ナターシャは、お客様の おもてなし用のお菓子を作るために、持てる小宇宙を限界まで燃え上がらせていたのである。

お菓子バトルは、今が まさに最高潮。
勝敗を決する非常に重要な岐路に差し掛かったところだった。
オーブンの中で、クリーム色だった生地は いよいよ小麦色になりかけている。
これが焦げ茶色や黒色になる前に、いちばんいいタイミングで勝負を終わらせなければならないのだ。
早すぎても駄目、遅くても駄目。
そのタイミングを見計らう、今は最も難しい“待ち”の時間だった。

「マーマ。マドレーヌは、どうして貝の形をしているノ?」
「この型はね、ホタテ貝の殻をかたどってるんだよ。マドレーヌが最初に作られたのは、フランスの小さな町なんだけど、その町のマークがホタテ貝だったんだって。もし マドレーヌが最初に東京で作られていたら、マドレーヌはイチョウの形になっていたかもしれないね」
「貝の形はマドレーヌの生まれた町のマークだったんダー。じゃあ、フィナンシェは、マークのない町で生まれたから、ただの長四角なの?」
「そうかもしれないね」
「あ、デモ、マドレーヌとフィナンシェって、形だけじゃなく、味もちょっと違うヨネ」
「そうだね。マドレーヌとフィナンシェは、作り方がちょっと違うんだよ。マドレーヌは、小麦粉とお砂糖と 卵を丸ごと混ぜたでしょう? フィナンシェは 黄身を除いて、卵白だけを使うんだ」
「えええーっ! そしたら、余った黄身はどうするのっ?」
「うーん。卵の黄身は、カスタードクリームを作るのに使えるね。あと、プリンを作る時も、黄身だけを使うと とろとろプリンができるんだよ」
「ソッカー。捨てちゃうのかと思って、ナターシャ、心配しちゃった」
「そんな ことはしないよ。そんな もったいないことをしたら、もったいないオバケが出るからね」
「もったいないオバケは恐いヨー!」

180度のオーブンで20分弱。
決して長い時間ではないのだが、生地を作っていた時とは違って、焼き上がるのを ただ待っているだけの20分は長い。
長すぎて、マーマとお喋りでもしていないと、待ちくたびれて おばあちゃんになってしまう。
だが もちろん、マーマとお喋りをしている間も ずっと、ナターシャの目はオーブンの中のマドレーヌに注がれたままだった。
見守っている必要はないのに、ナターシャが オーブンの前を動かないのは、このお菓子作りを成功させることを、彼女が彼女のパパに固く約束したからである。

氷河のレパートリーにお菓子はないので、氷河は この お菓子作りバトルには参加せずに、お客様のお迎えに出ている。
出掛ける際、
「準備を しっかり頼んだぞ、ナターシャ」
と、パパに頼まれたナターシャは、
「まっかしといてダヨ!」
と自信満々で、パパを送り出したのだ。
失敗は、絶対に許されなかった。






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