「ハイドウゾ。召し上がれ」
瞬が お客様の右手にティーカップを置いてくれていたので、ナターシャは置く位置を間違えずに、マドレーヌの載った皿を 左手に置くことができた。
「これは美味しそうだ。とても綺麗にできている」
「クッキーは何度も作っているが、マドレーヌは 今日 初めて作ったんだろう? 初めての挑戦で、見事な この出来上がり。ナターシャは天才かもしれんな」
おじいちゃんとパパに褒められて、ナターシャは得意満面。
朝から頑張った苦労が報われて、笑顔全開だった。

「貝殻の型に 綺麗にバターを塗らないと、美味しく焼けても、マドレーヌを 綺麗に型から取り出せないんダヨ! ナターシャ、頑張ったんダヨ!」
ナターシャは天才ではない。
これは努力の成果なのだ。
だからこそ、その努力が報われ、褒めてもらえることが嬉しい。
ナターシャの力作を食べたカミュに、
「とても美味しい」
という素朴な感想を言ってもらえた時、ナターシャの喜びは頂点に達した。

「ヤッター! マーマ! おじいちゃん、オイシイって! ナターシャが作ったマドレーヌ、オイシイって!」
「やっぱり、ナターシャちゃんのバターの塗り方がよかったんだね。ナターシャちゃんは、本当にムラがなく、丁寧に綺麗に塗ってたし、オーブンから出すタイミングも ちょうどよかった」
氷河は直感と感情で、瞬は論理的に、ナターシャの成功を喜び、褒める。

意識してのことではなく、自然に そうなった役割分担なのだろうが、そのバランスの妙に、カミュは感心していた。
氷河の娘が、こんなに明るく、積極的で屈託のない少女であることが意外であり、その意外さが嬉しい。
成功体験が豊富で前向き、知識欲も旺盛な少女。
この少女が どんな大人になるのかを、だが、おそらく彼女の“おじいちゃん”は確かめることができないのだ――。

「フランスで、『あなたのマドレーヌは何ですか』という質問は、『あなたが昔の出来事を思い出す きっかけになるものは何ですか』という意味なんだよ」
おじいちゃんの隣りの場所に戻ってきた知識欲旺盛なナターシャに、カミュは一つの知識を伝授してやった。
その知識を、彼女は ずっと忘れずにいてくれるだろうかと、思いながら――願いながら。

フランス人にとって、『あなたのマドレーヌは何ですか』は、記憶の鍵を尋ねる慣用句。
それは、マルセル・プルーストが著した『失われた時を求めて』の語り手が、マドレーヌを食べたことで、幼い頃の記憶を鮮やかに思い出したエピソードによる。
だが、ナターシャに『失われた時を求めて』は 少し早すぎるから。
「ドーシテ? ドーシテ、写真や お絵描き帳じゃないの? ドーシテ、マドレーヌなの?」
なぜマドレーヌなのかと尋ねてくるナターシャに、カミュは、
「マドレーヌは、フランス人の誰もが 子供の頃から慣れ親しんできたお菓子なんだ。子供の頃に、楽しい時も悲しい時も、必ず食べているお菓子。子供の側に必ずある お菓子。幼い頃の思い出といつも一緒にいるお菓子だからだよ。写真やお絵描き帳はなくしてしまうことがあるが、マドレーヌを食べた記憶は 誰にも消すことができない」
と答えたのである。

ナターシャが、カミュの説明に 大きく頷く。
「ナターシャ、わかるヨ! ナターシャ、パパに初めてイチゴとミルクのジュースを作ってもらった時、こんなに美味しいジュースを作ってくれるパパは、きっと とっても優しくて、ナターシャをずっと嬉しい気持ちにしてくれるんだって思ったヨ。ナターシャ、あのジュースがとっても 美味しかったこと、今でも憶えてるヨ! きっと、ずっと忘れないヨ!」
ナターシャが初めてパパに作ってもらった甘くて美味しいジュースが、フランス人にとっては マドレーヌなのだと、ナターシャは理解したらしい。
大切な思い出に直結した懐かしい味。
マドレーヌを食べたカミュに、ナターシャは早速、その成果を求めたのである。

「おじいちゃんは、パパが子供の頃のことを いっぱい知ってるんでしょう? パパが、シロクマやアザラシと遊んでたって、ほんと? パパは、子供の頃から、ナターシャみたいに いい子だった?」
ナターシャに問われたことに カミュが答えを返す前に、氷河から、
「もちろんだ!」
という、ほとんど怒鳴り声に近い大声での答えが、カミュとナターシャの間に投げ込まれる。

「氷河は、ナターシャに知られては困ることがあるのかな」
「あ、いや、決して そんなことは……」
たった今の威勢のいい大声はどこへやら、カミュに問われた氷河が、極めて わかりやすく しどろもどろになる。
氷河が、ナターシャに知られては困ることが『ある』とも『ない』とも明言しないのは、彼が嘘つきになりたくないから。
そして、それは カミュに対する氷河の気遣いでもあったかもしれなかった。

パパを愛してやまないナターシャに暴露されては困る失敗談や 悪い子だった事実が 氷河にあるように、カミュにも語りたくないことはあるだろう。
それは語らなくていいことなのだ。
『ナターシャの前では、ナターシャが喜ぶような楽しく優しい思い出だけを』
氷河が声に出して告げることはしなかった言葉が聞こえたからか、あるいは、そんな言葉は聞こえなくても そうするべきだと考えていたのか、カミュがナターシャに語ったのは、ナターシャが作ったマドレーヌのように甘く優しい思い出話ばかりだった。






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