「世間で そのセリフが流行ってることと、ナターシャが その流行の波に乗りまくってることはわかったけど、おまえらが雁首 揃えて、魔鈴さんに そのセリフを言ってもらうために、わざわざ城戸邸まで出張してくるってのは、どーゆーことだよ。瞬、おまえが言ってやればいいだろ」
ナターシャが 魔鈴に怒鳴りつけられて大喜びしている事情は 瞬の説明でわかったが、そのピコちゃんごっこを、わざわざ城戸邸までやってきて 遊ぶ(?)理由がわからない。
星矢が瞬に問うと、問われた瞬は 困ったように両肩をすくめた。

「そうできたらいいんだけど……。僕が『ぼやーっと生きてんじゃねーよ』って怒鳴っても、迫力不足らしくて、ナターシャちゃんは、恐くなくて詰まらないって言うんだよ。氷河には、ナターシャちゃんを怒鳴りつけることなんて、とてもじゃないけどできないし……。魔鈴さん、ご迷惑をお掛けてして、申し訳ありません」
瞬が、言葉通りに申し訳なさそうに、魔鈴に謝罪する。
瞬が持参した本日のお詫びとお礼の品は、某老舗和菓子店の大納言くるみ餅。
『ぼやーっと生きてんじゃねーよ!』のために、わざわざ城戸邸に出張してくる瞬たちに呆れている星矢は、どんな用もないのに、美味しいおやつが城戸邸に近付いていることを野生の勘(小宇宙)で察知して、今日 この場にやってきていた。
それに付き合わされる紫龍こそ、いい面の皮――いい迷惑だったろう。

「魔鈴さんに言ってもらえないと、ナターシャちゃんは自分で言おうとするんだよ。よそのおうちのお友だちや お母さん方に『ぼやーっと生きてんじゃねーよ』なんて、乱暴な言葉を言うようになったら大変だから……」
自分の娘には言わせたくない言葉を、よそのおうちの(?)熟女に言ってほしいと頼まなければならない瞬の立場には、非常に難しいものがある。
星矢に事情を説明しながら、瞬は しきりに魔鈴の様子を気にしていた。

「まー、そんなセリフ吐いて、決まるのは、魔鈴さんかシャイナさんくらいのもんだもんな。こーゆーことには、やっぱ、向き不向きってのがあるぜ」
そんな瞬の肩身の狭さ、いたたまれなさを、星矢は全く気に掛けない(理解できないわけではなく、理解しても気に掛けない)。
星矢は、瞬が持ってきた魔鈴への手土産を勝手に開けて、ぱくぱく 片付け始めていた。

「悪かったね。どーせ、アタシはガサツで乱暴な女だよ!」
言いながら、魔鈴は、無作法を極めている星矢の頭を がつんと殴りつけた。
その衝撃で、星矢が餅を喉に詰まらせる。
瞬は、げほげほ むせている星矢を無視して、魔鈴への慰労と弁明を優先した。
「魔鈴さんは 強くて、とても優しい心を持つ、素晴らしい女性です。ナターシャちゃんが魔鈴さんのように素敵な女性になってくれたら、僕はとても嬉しいんですが……」

その言葉に嘘はない。
決して嘘はないのだが、ナターシャに『ぼやーっと生きてんじゃねーよ!』が似合う素敵な女性になられては困るのだ。
二律背反に悩むマーマを救おうとしたわけではないだろうが、客間を5周 全力疾走し終えたナターシャが、ソファに座っている瞬の膝に飛び乗ってきた。
そして、瞬の隣りに座っている氷河の顔を 楽しそうに見上げる。

「あのね。ナターシャがパパに質問して、パパが答えられなかったから、ナターシャ、パパに『ぼやーっと生きてんじゃねーよ!』って言ってあげたんダヨ。そしたら、パパは ショックで ひっくり返っちゃったノ」
だから、それは、よそのおうちの人に言ってはいけない言葉で、パパに言ってはいけない言葉でもあるのだ。
しかし、ナターシャは、そのセリフを言ってもらいたいし、言ってくれる魔鈴が大好きで、尊敬すらしているのである。
魔鈴のご機嫌斜めは ただのポーズで、瞬の真意と悩ましい立場を、彼女はちゃんと理解していた。
だから、魔鈴は、
「情けない黄金聖闘士だよ。ったく」
と、氷河を腐すことで、瞬の矛盾した依頼の件は水に流してやったのである。
もちろん氷河は、魔鈴に何を言われようと、何も言い返すことができない。

「パパはひっくり返っちゃうし、マーマは、ナターシャが何を質問しても 全部答えちゃうから、ナターシャ、おうちではピコちゃんごっこができないノ。それに、『ぼやーっと生きてんじゃねーよ!』は、人に言うより、言われる方が断然 楽しいもん」
ナターシャは、要するに、“きゃーきゃー騒いで、逃げ惑う遊び”をしたいらしい。
「だから、難しい質問をしてくれってか」
そして、その遊びをするためには、『お面と仮面はどう違う?』というような、ナターシャが答えを知らない難しい(だが素朴な)疑問質問が必要なのだ。
ちなみに、『お面と仮面はどう違う?』は魔鈴からの出題だった。

「素朴で難しい質問かあ……。9桁の計算なんか、どうだ? 1億+2億はいくつだ? とかさ」
「さんおく! そういう質問じゃなく、もっと難しくて素朴な質問!」
「難しくて素朴な質問って、どんなのをいうんだよ? それこそ、難しくて素朴な質問だぜ」
星矢の意見は至極尤もだが、『難しくて素朴な質問の例を挙げよ』では、ピコちゃんごっこはできない。
ナターシャは 焦れったそうに、難しくて素朴な質問の例を 星矢に教示してやったのだった。

「んーと。ナターシャは可愛いでショ。マーマは綺麗でショ。可愛い人と綺麗な人の違いはなぁに?」
ナターシャから発せられた難しくて素朴な質問。
魔鈴は、瞬時、何か言いたげに仮面の奥で 口をもごもごさせたようだったが、結局 彼女は何も言わなかった。
彼女は質問内容のレビュアーではなく、答えられない回答者や誤答した回答者を怒鳴りつける役なのだ。
ここで、『男の瞬が綺麗なのが、あんたのうちの常識なのかい?』と、素朴な疑問(嫌味?)を発するのは、彼女の役目ではない。
言わずにいてよかっただろう。
それは、ナターシャの家だけでの常識ではなく、もう少し広い範囲内での常識のようだったから。

「ナターシャが可愛くて、瞬が綺麗ってのには 同意するけど、可愛いと綺麗の違いねー」
星矢が、難しくて素朴な質問の前提には 普通に賛同して、質問の解答を考え込み始める。
「紫龍、おまえ、わかるか?」
星矢に水を向けられた紫龍も、その質問の前提条件に引っ掛かりを覚えた様子は見せなかった。
「それが すべてを決するとは思わんが、年齢という要素の影響は大きいのではないか? つまり、歳の差だな。成人したら綺麗で、幼い子供は可愛い」
「確かに、赤ん坊は大抵、可愛い赤ちゃんで、綺麗な赤ちゃんとは言わないな。赤ん坊が綺麗だったら、そりゃ、涎で顔が汚れてないくらいの意味だ」
「年齢差というより、見て判断する側の人間の年齢でも違うかもしれん。たとえば、星矢から見たら、ナターシャは可愛い、瞬は綺麗だが、老師から見たら、瞬もナターシャも一律に“可愛い”で くくられてしまうかもしれん」
「老師から見たら、どっちも お子様だもんな。してみると、可愛いと綺麗の境目は、美人とブスの境目とは 違う次元にあるってことか」
「美人かブスかの判断は、判断する人間の好みで決まるだろう。人の好みは様々だ」
「それは そうかもしれねーけど、瞬みたいに、誰もが美人と認める美人もいるだろ。“好み”の一言で片付けられる問題じゃないと思うぞ、美人ブス問題は」

星矢は、これがナターシャが魔鈴に『ぼやーっと生きてんじゃねーよ!』を言ってもらうための前振り問題だということを、完全に忘れている。
そのセリフを言うタイミングを掴めずに いらいらしていた魔鈴は、結局 その時を待ちきれなくなり、星矢に対してブチ切れてしまった。
「美人のブスのと、一歩間違えばセクハラになる発言を、いつまで だらだらと くっちゃべってる気だい !? 星矢だけならまだしも、紫龍まで一緒になって、ぼやーっと生きてんじゃねーよ!』

ついに そのセリフを言うことはできたが、言った相手が当初の予定と違ってしまった。
「うへえ~」
魔鈴に怒鳴られて、大仰に頭を抱えてみせる星矢を、ナターシャが羨ましそうに見詰める。
だが、ナターシャは すぐに気を取り直して、負けてなるかと言わんばかりに身を乗り出し、魔鈴に向かって、自分の意見を披露し始めた。

「あのね。ナターシャは、可愛いは小さい人のことで、綺麗は大きい人のことだと思うノ。ナターシャは、小さな子供だから可愛い。マーマは大きな大人の人だから綺麗。デモ、パパよりは小さいから、パパはマーマのこと、綺麗って言ったり可愛いって言ったりするんだと思うノ」
「ああ、歳じゃなく、大きさね。なるほど。それは一理あるかもしれない」
ナターシャの答えを聞いた魔鈴が、その答えに頷いたのは、ナターシャの答えを正答だと思ったからというより、それが“小さくて可愛い”ナターシャが一生懸命考えた答えだと思うからだったろう。
決して 自分の答えを正しいと認めてもらいたかったわけではないナターシャが、むーっと顔をしかめる。

「ナターシャは、魔鈴さんに『ブブー。外れ! ぼやーっと生きてんじゃねーよ!』って、言ってほしいんだろ。正解だと思っても、間違いってことにしてやらなきゃ」
「そんなことができるかい!」
ぼんやり生きている人間に活を入れることは いくらでもできるが、黒を白と言ったり、白を黒と言ったりすることはできない。
それが イーグルの魔鈴である。
そういう人間だからこそ、彼女は、『ぼやーっと生きてんじゃねーよ!』を怒鳴って様になる女なのかもしれなかった。

「ナターシャ、悪かったね。でも、アタシは、ナターシャの答えで当たっているような気がするけどな。ガキの頃から20年、いい歳して、いまだに 瞬に可愛いだの綺麗だのと言い続けてるらしい氷河は、4、5回 殴り倒してやりたいが」
「俺は、思ったことを正直に言葉にしているだけだ」
「ナターシャちゃんの答えで合ってるんじゃないかな!」
瞬が突然、ナターシャと魔鈴のピコちゃんごっこに 大声で割り込んでいったのは、もちろん、氷河に これ以上 恥ずかしい家庭の事情を暴露させないためである。
瞬の膝の上から 氷河の膝の上に移動していたナターシャに、胸中の困惑と焦慮を気取られぬよう注意しながら、瞬が少々 強張った微笑を向ける。

「魔鈴さんの言う通り、僕も ナターシャちゃんの答えで合っていると思うよ。綺麗かどうかは、目で判断することで、可愛いかどうかは、心で判断すること。“綺麗”っていうのは、つまり、見た目のことで、花の色が鮮やかな赤い色をしているとか、噴水の水が きらきら輝いているとか、目に見えている、その状態のことなんだ。でも、“可愛い”は、目ではなくて、心がどう感じるかなんだよ。一生懸命 パパのお手伝いをしているナターシャちゃんとか、ちょこちょこ歩いている小犬。小さなものは可愛いでしょう? 可愛いと感じる気持ちは、だから、守ってあげたいと思う心に似ている」

「身の程知らずにも、氷河が瞬を守ってやりたいって思ってるってのか? 逆だろ。氷河は守られる方」
氷河が瞬に『可愛い』と言うということは、つまり、そういうことである。
氷河の思い上がりを、星矢が呆れた顔で非難すると、氷河からは、
「思うだけなら、俺の勝手だ」
という答えが返ってきた。
それは、そうである。
それは氷河の言う通りなので、星矢は、それ以上 氷河へのいちゃもんを重ねることはしなかった。
星矢は基本的に、周囲に迷惑をかけることさえなければ、個人の意思を尊重する男なのだ(たとえ、それが氷河であっても)。






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