彰往考来 ~ 年の始めのためしとて






街は完全に水中に沈んでいた。
海底に林立しているようなビルとビルの間を、水瓶座の黄金聖闘士の身体が ゆっくりと流れている。
彼は意識を失っているようだった。
早く掴まえて、空気のあるところに連れていかないと、水瓶座の黄金聖闘士は息絶え、その亡骸は沖に運ばれて、鮫や腐食動物の餌になってしまうだろう。
地上の平和を守るために命をかけて戦ってきた黄金聖闘士が、この地上世界で最も強く美しかった人が、私を救い、守り、愛してくれた人が、そんなことになってはならない。
絶対に。

「パパ!」
ナターシャの頭上数メートル、ビルの谷間を流れていくパパの許に、ナターシャは駆け寄ろうとした――泳いでいこうとした。
『プールは我慢してね』とマーマに言われ、水泳教室に通ったことはないが、泳げないわけではない。
ナターシャはアスファルトの道を蹴り、水の中を上昇しようとしたのである。
だが、何か大きくて暗く透明なものが水中に立ちはだかっていて、ナターシャは、その“何か”より上に行くことが どうしてもできなかった。

「パパ、パパ、マーマ!」
ナターシャが声を限りに叫んでも、その声は 完全に意識を失っているパパの耳には届かないらしく、パパは気付いてくれない。
マーマは、病院で瀕死の重病人の手当てをしているのか来てくれない。
パパは 遠くに流され、もうすぐ見えなくなる。
「パパ、パパ、パパーッ!」
ナターシャは水の中で泣いていた。
この海が、ナターシャの涙でできているようだった。
それほど悲しく、苦しく、胸が痛い。

なぜ こんなことになってしまったのか。
その経緯はわからなかったが、誰のせいなのかということはわかっていた。
「パパ、パパ、ごめんなさい。ナターシャのせい……ナターシャのせい……!」
大好きなパパを、自分が殺した。
ナターシャの胸は張り裂けそうだった。
実際に張り裂けていただろう。
ピルの谷間を流れていくパパの姿が完全に見えなくなった その瞬間、
「ナターシャ!」
「ナターシャちゃん、どうしたのっ !? 」
パパとマーマが、ナターシャを悪夢の海から引き揚げてくれなかったら。

パパのおうちのナターシャの部屋より ずっと広い部屋。
遠いところにある天井。
ナターシャが10人くらい並んで眠れそうなベッド。
ナターシャは、自分がなぜ こんなところにいるのか、すぐには思い出せなかった。

しかし、ともかく、パパは生きている。
パパは その青い瞳に、心配そうに、ナターシャの姿を映している。
そして、パパの隣りには、誰よりも頼りになるマーマ。
「ふえーっ !! 」
嬉しいのに、最初にナターシャの口を突いて出てきたのは、言葉になっていない悲鳴のような泣き声だった。
「パパ、生きてる! パパ、生きてる! ナターシャ、パパを殺しちゃったかと思ったよおっ……!」

ナターシャがパパの首に両腕を絡ませ、しがみつき、わんわん泣き出すと、パパは そんなナターシャの髪を幾度も撫で、それから 彼にしては珍しく、笑い声をあげて笑った――ようだった。
ナターシャはパパの首にしがみついていたので、パパの顔は見えていなかったのだが。
だから、笑っていることをナターシャに知らせるために、パパは わざわざ声を上げて笑うことをしてくれたのだったかもしれない。

「馬鹿な。この地上世界に 俺を殺せる人間は 瞬くらいしかいないぞ。ナターシャは小さくて、片手で俺を持ち上げることもできないだろう?」
「エ……」
もちろん、ナターシャは、片手どころか両手を使っても、 パパを持ち上げることはできない。
だが、マーマにも それは難しいのではないか。
パパはスマートだが、大きくて、マーマと比べても ずっと背が高い。
マーマは、公園にやってくる よそのおうちのママたちの誰よりも細いのに。

「マーマはパパを持ち上げられるノ?」
パパの首に絡みつかせていた腕を解き、ナターシャは、パパとマーマの顔を交互に覗き込んだのである。
心の半分で、そんなことができるはずがないと思いながら。
その質問に対する答えは、パパではなくマーマから返ってきた。
「もちろん簡単に持ち上げられるよ。さあ、氷河、ここに来て? 僕が抱っこしてあげるから」
「それは遠慮する。そんなカッコ悪い真似ができるか」
氷河が、ナターシャの眠っていたダブルベッドの上を、前転して 枕元から足元の方へと逃げる。

「言い出したのは氷河でしょう。ナターシャちゃん、僕が力持ちの証明をしてみせるから、氷河を捕まえて! タックルー!」
「きゃーっ、パパ、待てーっ!」
大きなベッドは、ボクシングやプロレスの ロープが張られていないリングのようなものである。
しかもスプリングが利いている。
世界チャンピオンナターシャは、逃げ惑う挑戦者氷河を、歓喜の声を上げながら、喜々として追いかけ始めた。






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