城戸邸の食堂には、味噌汁のいい匂いが漂っていた。
クロワッサンとカフェオレなどという オシャレな朝食では腹が膨れない――という星矢のリクエストで、今朝の朝食は和食になったのである。
氷河の家でも 朝はパン食が多いので、ナターシャは、朝から炊き立てのご飯を食べるという非日常(?)を楽しんでいるようだった。
何より運動のあとの食事は美味しいものである。
食卓の話題は、なかなか微妙なものだったが。

「それで、いい歳して、瞬とナターシャから逃げまわって、羽毛布団を蹴破って、客用寝室をガチョウのダウンだらけにしたと?」
紫龍は、実行犯に渋面を向け、
「ったく、おまえまで一緒になって、何やってんだよ、瞬!」
星矢は、瞬の監督不行き届きに呆れている。
彼等が呆れるのは当然のこと。まったく、面目ない。
瞬は、ひたすら頭を下げ続けることしかできなかった。
瞬が頭を下げる相手は、紫龍でも星矢でもなく、この邸宅の所有者 兼 居住者である城戸沙織の方だったが。

「沙織さん、本当に すみません」
布団を蹴破った当の氷河は、『それでナターシャが元気になったのだから、何の問題もない。俺は むしろ いいことをした』と反省の色もない。
氷河の分も――謝って済むなら、瞬はいくらでも謝るつもりだった。
そんな瞬を見て、ナターシャが――ナターシャも、パパの代わりに ごめんなさいをする。
「沙織サン、ゴメンナサイ」

紫龍と星矢が 一層 苦い顔になったのは、瞬とナターシャに守られて、氷河の罪が(今回も)許されてしまうのだろうことが察せられたからだったろう。
もちろん、彼等の予測は現実のものとなる。

「ナターシャちゃんのせいじゃないのよ。元はと言えば、私が、昔を懐かしんで、お正月くらいは実家に帰ってらっしゃいと言って、皆を呼び出したせいだし――。ナターシャちゃんの夢は、ベッドが変わったのが よくなかったのかしらね」
「ここの客用寝室のベッドは、遊ぶのには最高だけど、子供が寝るには広すぎるからなあ……」

“昔を懐かしんで”、元青銅聖闘士たちは、昨夜は、彼等が青銅聖闘士だったころに使っていた部屋で就寝した。
ナターシャは 自分の部屋で引き受けると告げた瞬に 異議を唱えたのは氷河で、その理由は、『昔を懐かしんで、昔のように、瞬の部屋に忍んでいくことができなくなるから』。
瞬は、そんなことで昔を懐かむつもりはなかったのだが、万一のことを考えて、ナターシャは別室で寝ませることにしたのだ。

城戸邸での初めての お泊まり。
昨夜の就寝時、ナターシャはでんぐり返りが連続2回もできるほど広いベッドに興奮し、大喜びだったのだ。
この事態は誰にも予測できなかったし、誰の責任でもない。
瞬のみならず、ナターシャまでが謝っているのに、『ごめんなさい』の『ご』の字も口にしない氷河の頭を殴ってから、紫龍と星矢は話題を変える作業に取り掛かった。

「氷河は 深く反省すべきだが、ナターシャは気にする必要はない。俺たちが ここで暮らしていた頃、星矢が起こす騒動は こんな大人しいものではなかったからな。いつだったか、ここの大ホールで点心のパーティーが催されたことがあったんだが、星矢が、厨房にある 桃饅頭を50個盗もうとして、大騒ぎになったことがある」
「桃まん50個ーっ !? 」

ナターシャの目が、ごま団子のように丸くなる。
いわゆる中華まんほど大きくはないが、それでも桃饅頭を50個というのは、盗むにしても食べるにしても多すぎる量である。
いったい星矢ちゃんは 桃まんを50個も盗んでどうしようとしたのか。
お店でも開くつもりだったのか。
そんなことを考えて、ナターシャの目は ごま団子になったようだった。
星矢が、紫龍が読み上げた起訴状に対して 即座に異議を申し立てる。

「勝手に話を大きくすんなよ! 俺は、あん時、たった1個だけ、親切心で、桃まんの毒見をしてやろうと思っただけだったんだ。それを たまたま見付けた辰巳が、俺を捕まえようとするから、当然 俺は逃げまわって――」
厨房には桃まんが5個入った蒸籠が10個並んでいた。
星矢と辰巳が そこで、飛んだり跳ねたりの追いかけっこを始めたから たまらない。
10個並んでいた蒸籠の半分以上がひっくり返り、可憐な桃まんたちは蒸籠を飛び出て、宙を舞うことになったのである。

とはいえ、桃まんたちが床に落ちる前に、星矢は そのすべてを 空になった蒸籠で受けとめた。
が、蒸籠から飛び出た桃まんの多くは形が崩れてしまっており、客に出すことはできない。
だから、星矢は、役に立たなくなった桃まん30個の後始末を買って出たのである。
さすがの星矢も 一度に桃まん30個を片付けるは難しかったので、彼は、仲間たちを呼んで後始末を手伝わせたのだった。

「食べ物のこととなると、星矢は知能犯だったよね」
あの時 星矢の後片付けの手伝いを頼まれた瞬は、幼い頃の星矢の犯罪を 微笑んで責め(褒め)た。
瞬に褒められても、星矢は 起訴状の内容を全面的に認めることはしなかった。
つまり、起訴状の一部は認めた。
「本当に、最初は1個だけのつもりだったんだって。けど、すげータイミングよく 辰巳に見付かったから、これは使えるって ひらめいたんだよ。あんな大騒ぎになるとまでは考えてなかったけど……。俺たち、ガキの頃は、腹一杯 食ったことなかったからな。知恵もまわるようになるさ」

「そうだね。城戸邸に来る前に僕がいた施設では、僕も、他の子に 食事や おやつを取られてばかりだったな。あの頃の養護施設はどこも、アフリカのサバンナより弱肉強食の世界だったよね」
「エ……」
ナターシャは“弱肉強食”の意味を知っている。
動物は、自分が生きるために、狩りを行なうのだ。
人間も、たくさんの命を食べて生きている。
だから、ご飯を食べる時には、それらの命に感謝して、有難く命を“いただく”のだと――『いただきます』と言うのだと、マーマに教えてもらった。

そのことは知っていたのだが、マーマは強いから、自分から他の人に食べ物を分けてやることはあっても、他の人に食べ物を奪われるようなことはないと、ナターシャは思っていたのだ。
マーマが 公園にやってくる よそのおうちのママたちの誰よりも細いのは、もしかしたら、子供の頃のサバンナ暮らしのせいなのだろうか――。
もし そうなのだとしたら、ナターシャは放っておけなかった。

「マーマ。ナターシャの卵焼き、あげるヨ。食べて」
どう考えても わざわざナターシャのために用意された子供用のハイチェアに座り、どう考えても わざわざナターシャのために準備された子供用の和食器で、大人たちと一緒に食事をとっていたナターシャは、厚焼き卵の載った皿を、瞬の前に移動させた。
「えっ」
おそらく今日の朝食メニューの中で ナターシャが最も好ましく思っているメニュー ――焼き鮭より、里芋のおぼろあんかけより、椎茸の甘煮より、アサリの佃煮より、ほうれん草の煮びたしより、楽しみにしている一品。
自分が いちばん食べたいものを、ナターシャはマーマのために我慢することにしたのだ。
ナターシャの健気に、瞬が微笑む。

「僕が食べ物を取られていたのは、昔の話だよ。今はもう大丈夫。今はもう人に食べ物を取られることはないし、逆に、人に分けてあげられるくらい 僕は強くなった。だから、ナターシャちゃんの分はナターシャちゃんが食べて。卵焼き、ふわふわで美味しいよ。ありがとう、ナターシャちゃん」
「デモ……」
マーマが強いことは知っているが、マーマが細いこともまた、紛う方なき事実である。
心配そうな目をして 瞬の顔を見上げるナターシャに、なぜか氷河が得意満面、鼻高々だった。

「どうだ。ナターシャの優しいこと。星矢とは雲泥の差だ。星矢は、よく瞬から おかずを盗んでいた」
「エエエエエッ! マーマのご飯を盗ったの、星矢ちゃんもなのっ !? そんなの、ひどいヨ!」
衝撃の事実に、ナターシャは驚愕し、その驚愕は すぐに怒りの感情に変わっていった。
そんなことがあっていいものだろうか。
マーマはいつも、病気が完全に治っていない星矢ちゃんのことを気に掛けているのに、そんなマーマから おかずを盗むなんて、星矢ちゃんは 悪い魔女や意地悪なママハハたちと同じくらい ひどい。
少々 時系列が狂っているが、ナターシャの怒りは、そんなふうに大きくなっていったのである。
星矢は、今回も罪状を一部 否認。そぼろあんの かかった里芋を丸ごと1個 呑み込んでから、ナターシャの非難に対する 我が身の弁護を始めた。

「それは誤解! ナターシャ、それは誤解だぞ。俺はさ、俺はただ、瞬は ピーマンとかネギとか嫌いだろうと思ったから、親切心で食ってやってたの! ほら、瞬って、見るからに、甘いものだけ食ってるみたいな感じがするだろ? ピーマンやネギみたいに苦味のある食い物は苦手そうな感じがするだろ? だから! 俺、瞬から ピーマンやネギは かすめ取ってたけど、桃まん騒動の時は、手に入れた桃まん、瞬には3つ 分けてやったんだぜ。他の奴等には1つしか 分けてやらなかったのに」
「それで、星矢、あの時……」

あの時 星矢が桃饅頭を3つも分けてくれたのは そういうことだったのかと、瞬の中で今、十数年前の謎が一つ解けた。
命を預け、心を許し合った仲間同士といっても、謎や誤解、誤認はあるものである。
そんなことを しみじみ一瞬 思ってから、瞬は 急いでナターシャの方に向き直った。
それはそれで それとして、瞬は、ナターシャが誤解することは未然に防がなければならなかったのだ。

「僕には、そんな好き嫌いはないよ。ナターシャちゃんも好き嫌いはしないでね」
「ナターシャはダイジョウブ。ピーマンは、シミ・ソバカス防止野菜で、メンエキリョク強化ダヨ。おネギは、お肌を綺麗にして、アンチエイジングだよ」
大切に“いただいた”野菜の命。
その命が自分の命と一緒になって 何をしてくれるのかを、マーマに教えてもらって、ナターシャは ちゃんと知っていた。
特別に好きな食べ物はあったが、ナターシャに 好き嫌いはなかった。

「今からアンチエイジングかよ。すげーな」
それは、どう考えても、未就学児童の常識ではない。
だが、ナターシャには、それらは 極めて重要で意義ある知識なのだろう。
だから、ナターシャは、それらの知識をしっかり覚えているのだ。
子供に好き嫌いをさせない瞬の見事なテクニックに、紫龍は感心しないわけにはいかなかった。
「まあ、瞬の言う通りにしていれば、ナターシャは間違いなく美人になれるだろう」
「ナターシャ、頑張るヨ!」
紫龍から手渡された お墨付きに、ナターシャが強い決意の笑顔で応じる。
ピーマンの命やネギの命が何の役に立つのかがわかっていれば、好き嫌いはしていられない。
パパの可愛いナターシャでいるために、ナターシャは、喜んでピーマンもネギも食べるのだ。






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