紅茶は、沙織が 関心を抱くことができている唯一の飲食物である。 数年前グラードがネパールに開いた農園で取れたお茶の感想を聞きたいという沙織の求めに応じて、朝食後、一同はラウンジへと移動した。 そうする必要もなく、そうしようと 示し合わせたわけでもないのに、自然に、彼等が青銅聖闘士として この屋敷で暮らしていた頃の定位置に収まることに、沙織が からかい口調で言及した時、メイドが一人、少し慌てた様子でラウンジに入ってきた。 何か想定外のトラブルが起きたらしい。 「お嬢様。大変 申し訳ありません。お年始のお客様がいらしているのですが」 メイドの報告に、沙織は 僅かに眉をひそめた。 「どなた? 三が日は賀詞交歓会への招待や お年始の訪問も受け付けるけれど、それ以降は松の内にアポイントメントは入れないようにと指示してあったはずだけど」 その件はメイドも聞いていたらしい。 今年の1月の最初の週末は、家族同然の昔馴染みたちと水入らずで過ごす――という、沙織お嬢様の予定を。 メイドは、つい先日 重厚長大産業を中心に運営していたK団連に加盟して話題になったネット通販企業の名前と そのCEOの名を、心苦しそうに口にし、 「秘書室のミスがあったようで……。奥様と ご一緒に、今、エントランスホールで お待ちいただいております。このまま お帰りいただくのも失礼かと……」 と、主人の意向を問うてきた。 あちらがアポイントメントも取らずに押しかけてきたというのなら、問答無用で帰ってもらうこともできるが、こちらのミスとなると、それはできない。 沙織が危急の用事を抱えているわけでもなく在宅となったら、なおさらである。 沙織の困惑の様を見て、瞬は先手を打った。 「沙織さん。僕たちは もう おいとましますよ。お忙しいのでしょう? 僕たちのために、沙織さんの週末を空けていただくなんて、それ自体 贅沢極まりないことだったんですし、僕たちのことは お気になさらず」 「エーッ」 瞬の提案に、ナターシャが不満の声を上げる。 ナターシャは、帰りたくなさそうだった。 否、明確に帰りたくないのだ、ナターシャは。 彼女は、城戸邸のぐるりと曲線を描いている階段や 広いホールや 長い廊下が大好きなのである。 今日は、ランチとおやつも 皆で一緒に食べて、午前中は星矢ちゃんと二人で“ナターシャの知らない城戸邸スポット探検”。 午後は、一同 打ち揃って、パパたちがアテナの聖闘士になりたての頃に開催されたギャラクシアン・ウォーズのビデオ鑑賞をする予定になっていたのだ。 ナターシャの不満表明の声に力を得たように、沙織は瞬の提案に難色を示した。 「でも、あなた方を誘ったのは私の方よ。なのに……」 なのに、家の主人が瞬たちを放っておくのは礼を失していると 沙織が感じるのは、この家にとって 瞬たちは客だから――もう住人ではないから――だろう。 そういう意識が、沙織の中にも瞬の中にも できてしまっているのだ。 そんな生真面目で堅苦しい二人に 救いの手を差しのべてくれたのは、二人に比べれば 礼儀知らずで 色々なことが緩い星矢だった。 「瞬。気にせず、昔みたいに 好き勝手させてもらおうぜー。客なんか、どうせ1時間もすりゃ帰るだろ。俺、何があっても、今日の昼飯と おやつまでは、ここにいるぞ」 星矢の緩い発言に安堵したように、沙織は 緊張させていた肩から力を抜いた。 「そうよ。みんなの分の食材も仕入れてあるし、あなた方に帰られてしまったら困るわ。のんびりしていって。ここは、あなた方の家――あなた方の実家よ」 「沙織さん……」 グラード財団総帥として、女神アテナとして、沙織が常に孤独な緊張を強いられていることは 理解している。 そんな沙織には――そんな沙織だからこそ、たとえ束の間でも 緊張を強いられない安らぎの時が必要なのか。 瞬は、沙織のために、この場は ナターシャと星矢に負けることにした。 「そうですね。では、お言葉に甘えて、予定通り、夕方まで」 「ヤッター!」 マーマのお許しに歓喜して、ナターシャが ラウンジから駆け出す。 ナターシャにとって 城戸邸は、順番を待たなくても好きなだけアスレチック遊具を使える巨大アドベンチャー施設だった。 ラウンジから続く廊下を駆け抜け、エントランスホールに出たところで、残念ながら ナターシャは瞬に捕まってしまったが。 「ナターシャちゃん。お客様がいらしてるから、今は エントランスで遊んじゃ駄目だよ」 「ワワワワワっ」 瞬に手を掴まれたナターシャが すぐに走るのをやめたのは、もちろん、彼女がマーマの言うことをよく聞く いい子だから。 そして、ナターシャが突入したエントランスホールに、見知らぬ大人が二人いたからだった。 「瞬さん……?」 二人の客人――某ネット通販企業のCEOと その夫人だろう――の一方が、どこか気後れしているような声で、ナターシャを捕まえた瞬の名を呼ぶ。 「え?」 瞬の名を呼んだのは、某ネット通販企業のCEOの隣りに立つ夫人の方だった。 瞬より 幾つか年長に見えるが、瞬の異様なほどの年齢不詳振りを考えると、瞬より年下なのかもしれない。 ストレートのセミロングの黒髪と、黒と臙脂色のツーピース。 美貌や若さで 日本屈指の成長企業のCEO夫人に納まったのではないことが一目でわかる女性。 彼女が誰なのかを思い出すために、瞬は確実に10秒以上の時間を費やした。 名と顔を思い出せても、言うべき言葉は思いつけない。 続かない会話に いたたまれなさを覚え始めていた瞬を救ってくれたのは、瞬たちを追って やってきたグラード財団総帥その人だった。 某ネット通販企業のCEOが、沙織に 形式通りの新年の挨拶を告げ、沙織も彼に同じ言葉を返す。 それから沙織は、その視線を、某ネット通販企業のCEOから 瞬の方へと巡らせた。 「瞬。お知り合いなの? まさか、病院の……?」 「あ、いえ。僕の患者というのではないんです。学生の頃の知人で――」 松の内から病気の話をせずに済むのなら、それに越したことはない。 沙織の顔に微笑が浮かび、彼女は それを某ネット通販企業のCEO夫人に向けた。 「まあ。瞬の同窓なの? では、とても優秀な方なのね」 「いえ、私は医学部ではなく 仏文で、瞬先輩とは 到底 比べ物にはなりません」 「ご謙遜。瞬の同窓で、しかも、学部が違うのに瞬に顔を憶えられているなんて、よほど優秀な方でなければ考えられないことよ」 「そんなことは……」 CEO夫人が、気まずそうに視線を脇に逸らす。 瞬は無言。 ナターシャが瞬の手を握って、マーマと よそのおばちゃんの顔を 下から交互に覗き込み、結局 彼女も沈黙した。 “ちゃんとご挨拶ができる礼儀正しい いい子”アピールが好きなナターシャが、初めて会った人に『こんにちは』も言わないのは、常にないことである。 マーマと よそのおばちゃんの間に漂う気まずい空気を、ナターシャは 敏感に感じ取っているのだ。 某ネット通販企業のCEOが――こちらは、商売の企画力や経営能力はあっても、人間観察力は今ひとつらしく――緊張に鈍感な大物らしい のんびりした声で、沙織に瞬の素性を尋ねることをした。 「こちらは総帥の ご親族ですか」 「私の弟のようなものよ」 「美しく聡明な、華麗なる一族というわけですか。さすが」 「ええ。さすがでしょう?」 「沙織さん、冗談はやめてください。本気になさったらどうするんです……!」 「あら、ただの事実でしょ」 緊張に鈍感な大物は、子供は目に入らないらしい。 鈍感CEОに無視されたナターシャは、おかげで、ちゃんとご挨拶できなかったことを気に病まずに済んだようだった。 「客間の方にどうぞ」 いつまでも客人をエントランスホールに立たせておきたくないらしいメイドが、大人たちのやりとりの中に割り込んでくる。 某ネット通販企業のCEO夫人は、瞬と視線を会わせない会釈をして、夫君と共に客間に向かって歩き出した。 「気まずそうにしていたぞ。訳ありか」 いつのまにか その場にやってきていた氷河が、ほとんど独り言のような口調で瞬に尋ねてくる。 「ん……」 頷く瞬にも、CEO夫人の気まずい気持ちが 少し伝染してしまっていた。 |