客が来ている本館でアスレチックや冒険ごっこをするわけにはいかないので、星矢は ナターシャを連れてジムのある西館に向かった。 ナターシャのお守りを星矢にだけ任せておくのは危険なので、紫龍が監視役として同行。 思わぬ年始客の出現のせいで、ラウンジで紅茶の試飲をするのは瞬と氷河の二人だけになってしまったのである。 問題の紅茶の氷河の評価は、『カクテルには使えないが、ストレートで飲む分には、程よい甘みがあって日本人好みだろう』だった。 「彼女、僕と同い年だけど、1年浪人していて……最初は理三の医学部志望だったそうなんだけど、翌年は文三で入学してきたんだ。どうやら、僕の同級生――石野くんっていう学生に好意を抱いていて、彼と同じ大学に入れるなら、学部はどこでもよかったみたい。石野くんのお父さんが呼吸器科、彼女のお父さんが婦人科の開業医で、友人同士。たまに冗談で、自分たちの息子と娘が結婚したら親戚同士になれる――なんていう話をしていたみたい」 「なるほど」 それだけで、氷河は、おおよそのストーリー展開が読めてしまったらしい。 つまり、父親同士の冗談を、その娘だけが本気にしていたのだ――と。 今日初めて出会い、言葉を交わしたこともない人間の悪口を言うのは浅慮と思ったのか、氷河は(一応)彼女を褒めてきた。 「医学部を断念したにしても、おまえと同窓になれただけでもすごいだろう」 氷河は、心底から そう思っているわけではない。 彼の発言には、『というのが、世間一般の見方だろう』という言葉が省略されている。 瞬は、気持ちだけの――表情に出るか出ないかというほどの――苦笑を浮かべた。 「1年遅れで入ってきたら、好きな人の側に妙な女がいる」 「ん?」 「と、誤解したみたい。僕に近付いてきて――最初は友好的だった。僕は僕で、彼女のことを 石野くんのガールフレンドなんだろうと勝手に決めつけて、親切にしていたつもりだったんだけど、それが傲慢に感じられたらしくて、気に障ったのかな。石野くん自身が 彼女をどう思っていたのかは知らないけど、そもそも医学部の学生に遊んでいる時間はないからね。石野くんが自分に素っ気ないのは僕のせいだと思ったのか、ある日突然、僕の前で爆発して……」 どういう経緯で あんなことになったのだったかを、瞬は よく憶えていなかった。 意識して忘れようと努めていたせいもあるだろうが、彼女の悲鳴じみた糾弾の言葉が衝撃的すぎて、他のことは 本当に記憶していないせいもある。 医学部の小教室だったか、学生会館のロビーだったか、周囲に何人かの学生はいたが、肝心の石野はいなかった。 『悪意なんか抱いたこともないような善人面! 美人は得よね。誰からも愛されて、甘やかされて、望みは何でも叶う。だから、誰にでも分け隔てなく親切で優しくできる。挫折知らず、世間知らずのおめでたい人。いらいらする! その白雪姫みたいに綺麗な顔が 視界に入るだけで、いらいらするのよっ!』 言われた場所も憶えていないのに、投げつけられた言葉だけは、ほぼ そのまま憶えている。 その言葉の意味が すぐには呑み込めず、幾度も反芻して、その言葉の意味を考えたから。 何とか理解して、彼女は大変な誤解をしていると、瞬は まず慌てた、 だが、すぐに、それは誤解ではないのかもしれないと、瞬は思い直したのだ。 『そうですね。僕はいつも愛に囲まれ、いつも誰かに守られていた。僕は本当に恵まれた人間です』 どんな他意もなく、虚心に、そう思った。 だから、彼女を苛立たせたことを 申し訳なく思い、自分を恵まれた人間にしてくれている仲間たち、友人たちに 心から感謝して、瞬は そう言ったのだ。 「彼女は、その日以来 ぷっつりと医学部周辺では 姿を見掛けなくなって、今日 会ったのが十数年振り。石野くんは、大学に残って、今も大学病院にいるけど、奥さんは別の女性だよ」 「医者の妻になるのを早々に断念して、ターゲットを変え、IT長者の奥方に納まったわけだ。女は恐いな」 「そんな言い方は……」 「褒めているんだ。言っては何だが、あの十人並みの ご面相で、相当の才覚がないとできないことだぞ」 皮肉で嫌味な口調。 もう十数年も前のことなのに、氷河は烈火のごとくに怒っている。 話すべきではなかったかと、瞬は 自身の軽率を悔やんだのである。 ナターシャが来てから、氷河は すっかり、“娘が可愛すぎて叱ることもできない、優しく甘いナターシャちゃんのパパ”が板についていたので、油断した。 とはいえ、今日 このあと、『お元気で』と別れの挨拶を告げたら、もう二度と会うことはないかもしれない人である。 ことによったら、『お元気で』を言うことすらないかもしれない。 その方がいい。 激している氷河を なだめるには、ナターシャの顔を見せるのが いちばん。 そう考えて、氷河をジムに誘うべく、瞬は掛けていたソファから立ち上がったのである。――その時。 ラウンジのドアが開いて、彼女が室内に入ってきた。 瞬と学生の頃の思い話をしたいとでも言ってきたのか、夫君は一緒ではない。 おそらく彼女は、聞いて楽しい話はしない。 彼女の硬い表情を見て、そう確認した瞬は、氷河に先にナターシャの許に行くよう勧めたのだが、氷河の返事は、 「嫌だ。俺は ここにいる」 だった。 それで、瞬が十数年前の出来事を氷河に知らせたのだろうことを察したらしい。彼女は、 「結構です。ギリシャ彫刻が一体 置かれていると思うことにしますから」 と、氷河を無視することを 堂々と宣言してのけた。 確かに彼女には、氷河の見立て通り、並々ならぬ才覚(と度胸)が備わっている。 彼女は ラウンジのドアの前に立ったまま、瞬に向かって――挑むような瞳と口調で、彼女の用件を語り始めた。 「あの日のこと――忘れてくれていたら嬉しいのだけど、あなたは 忘れてはいないでしょうね。あの日――あなたに ひどいことを わめき散らしたあと、私は石野君のところに行って、もう一度、あなたの悪口を彼に言いまくったんです。苦労知らずで、綺麗な顔で、誰からも愛され甘やかされ、だから、優しく善良でいられるだけの、おめでたい人だと。私の目には、あなたが何もかもに恵まれた幸運な人に見えていた。特に、その美貌と頭脳。私は、自分を悲劇の主人公に仕立て上げ、不幸に酔いしれていた」 彼女が瞬に語ることは、あの日のことしかない。 形ばかりの謝罪を口にするのだろうか。気まずいのなら、そんなことはしなくていいのに。 瞬は そう思っていたのに、彼女が瞬の許に一人でやってきたのは、形式的な和解を果たすためではなく――どうやら、告解をするためのようだった。 「石野くんは、あなたが両親の話を全くしないこと、肉親はお兄さんしかいないらしいこと、時折 児童養護施設に通っていること――そんなことを私に語って、あなたが 恵まれているどころか、大変な苦労人らしいことを私に教えてくれました」 「石野くんが……?」 瞬は、もちろん、自分の境遇について学友に語ったことはない。 差別も同情も、瞬は欲しくはなかったから。 しかし、石野は気付いていたらしい――おおよそのところを察してはいたらしい。 おそらく、石野以外にも、気付いていた学友は幾人もいたのだろう。 だが、彼等は気付いていない振りをし――だから 瞬は、彼等と共に 優しく充実した学生時代を過ごすことができたのだ。 やはり自分は恵まれた人間なのだと、いつも多くの人の優しさに守られ 庇われていた幸せな人間だったのだと、瞬は、自身の幸運と幸福に 改めて深く感謝することになったのである。 それもこれも、すべては彼女の誤解のおかげ。と言ったら、彼女に悪いだろうか。失礼だろうか。 しかし、瞬は、彼女にも感謝したかった――既に感謝していた。 そんなふうに、もしかしたら失礼なのかもしれない幸福感に浸りかけていた瞬の背に、突然 はっとするほど冷たい水が 浴びせかけられる。 「そして、石野くんは、今度は あなたの不遇を悪口の種にするのかと言って、軽蔑するような目で、私を見た」 「あ……」 石野は、何の力も持っていない(ことになっている)――むしろ、社会的には弱者に分類される貧しい勤労学生である学友を守るために、自分に好意を抱いてくれている女性、父親同士が友人で険悪な関係にはならない方がいい女性を 非難することまでしてくれていたのだ。 そして、そのために彼は、幼い頃から家族ぐるみで付き合いのあった友人を一人 失ったのかもしれない。 十数年も経ってから 知らされた その事実に、瞬は 呆然とした。 石野とは、今でも親交があるが、彼は このことを一度も 瞬に語ったことがない――語らずに、彼は ずっと瞬の友人でいてくれたのだ。 「私は、その時にはもう、自分が どんな愚かなことをしたのか わかっていたんだけど、石野くんが 私ではなく あなたの味方についたことに腹が立って……恥ずかしくて、石野くんに会いにいけなくなった」 彼女の突然の爆発以来、医学部教室周辺で彼女の姿を見掛けることがなくなったのには、そういう事情があったらしい。 十数年ぶりに知らされることが多すぎて、瞬は――瞬の感情は混乱していた。 石野の誠実な友情と まっすぐな義心に感謝する心と、彼女への申し訳なさが、瞬の中で せめぎ合っている。 混乱する瞬を落ち着かせてくれたのは、彼女の変化――おそらく成長といっていい変化――だった。 「ごめんなさいと言いに行くことすらできなかった自分の臆病と卑劣に呆れるわ。おかげで、私は十何年間も 自己嫌悪を引きずることになった。十数年間ずっと、あの日のことが心にわだかまって、引っ掛かっていた」 彼女は、瞬に詫びるためではなく、己れの不実な行動を言い訳するためでもなく、とにかく ただ悔しそうに そう言った。 彼女は、自分の心と時間を無駄に費やし すり減らしてしまった十数年間が 悔しくてならないのだろう。 そうしてから、 「ごめんなさい」 と、瞬に詫びてくる。 彼女の反省や後悔や謝罪は、瞬への罪悪感ではなく、石野への感謝でもなく、あくまで自分のためのものであるらしい。 勝ち気で我儘な彼女の、実に彼女らしい変化・成長に、瞬の唇からは つい笑みが零れてしまったのである。 「いいえ。僕が恵まれていたのは事実でしたから」 そのことに気付かず、感謝が足りていなかった点では、瞬も彼女と大差ない。 その事実に気付かせてくれた彼女には、瞬は やはり感謝の気持ちしか抱けなかった。 だから瞬は、彼女が瞬に謝罪にやってきた真の 最大の目的を知らされて、かえって安堵したのである。 彼女は一瞬、気まずそうな一瞥を瞬に投げ、それから開き直ったように、彼女の謝罪の目的を口にした。 「私の夫の会社は、時宜を得て急成長した、グラードに比べれば 成り上がりの企業です。けれど、その事業内容は 社会的に需要があって、有意義で、多くの人の役に立っていると思います。私のことで、夫の事業がグラードの総帥に悪い印象を持たれるのは困るんです」 困るのは 社会か、彼女の夫君の経営する会社か、彼女の夫君か、彼女自身か。 そのどれであっても、瞬は構わなかった――構わないと思った。 「沙織さんには何も言いませんよ。僕はグラードの事業の方には無関係です。もし僕が何か言っても、沙織さんは そんなことで 人物の評価や仕事の判断を変えることはありません。沙織さんは、ご自分で判断する。誰かが傍から中傷を吹き込んでも、そんなものに影響されることはない。同じように、傍の人間の執り成しも聞きませんけどね」 告げ口などしないし、しても無意味だという瞬の言葉に、彼女は安堵したらしい。 安堵して、彼女は 初めて、 「……すみません。私はいつも自分勝手で」 彼女にしては、やけに殊勝な詫びの言葉を口にした。 「いいえ。今、あなたがお幸せなら、それが何よりです」 社交辞令でも、綺麗事でもない、それは瞬の心底からの言葉だった。 十数年前 石野が彼女を責めたのも、それは瞬のためであり、同時に彼女のためでもあったろう。 叱っても、その叱責の意味を理解する能力がないと思う相手を、人は わざわざ叱らない。 鳴き声が うるさいから静かにしろと、ムクドリを叱る人間はいない。 彼女は彼女なりに石野の言葉の意味を考え、理解し、変わったのだ。 石野の叱責は、無駄ではなかった。 瞬は、何よりも それが嬉しかったのである。 その行動原理が どこまでも“自分の都合”にある彼女が 不快に感じられて仕方がないらしく、氷河は終始 仏頂面だったが、そのことで人を非難できるほど、氷河は愛他主義者ではない。 氷河は結局、彼女への非難や叱責は 一言も口にしなかった。 |