そんなふうに胸中で幾度も溜め息をつきながら 病院を出た瞬は、シュラに求められた通り、自宅ではなく押上の氷河の店に向かったのである。 これまでに幾度も開けてきた氷河の店のドア。 瞬がヴィディアムーのドアを開けると、手動のドアは いつもと違う音を響かせた。 違っているのは、ドアの音だけではない。 店に入ると、店内の空気が いつもと全く違っていた。 重い。 淀んではいないのだが、重い。 気のせいではなく、実際に重い。 それは どうやら、冬という季節の寒さを適温にするための空調と、水と氷の魔術師カミュが生み出す凍気を打ち消すための空調とでは、装置の働き方が違ってくるからであるらしい。 いつもは全く 気にならない空調装置の音が、今日は まるで曲調の異なる楽曲を次から次に繰り出す狂詩曲を奏でているように、騒がしく乱れていた。 瞬が店に入っていくと、カウンターの中で氷河が、テーブル席の脇でシュラが、地獄で仏に会ったような顔を瞬に向けてくる。 この店の店長と従業員が、事態の収拾を(一応、客である)瞬一人に任せるつもりでいることは 火を見るより明らか。 吉乃が この場にいたら、二人に対して容赦なく、『ここには駄目な男しかいないのっ !? 』が炸裂していたに違いなかった。 凍気を生んでいるのだから、生きているのだろう。 だが、カミュは 死人のように動かない。 自縄自縛 ならぬ 自棺自縛。 カミュは店の最奥のテーブル席で、自らの力で自らをフリージングコフィンに閉じ込めでもしたかのように凍りついていた。 いったい 水と氷の魔術師の身に何が起きたのか。 いったい どんな力を持った敵ならば、凍気使いである彼を ここまで見事に凍りつかせることができるのか。 立場上、そして性格的に、氷河には無理である。 では、誰が。 最も あり得ない人物の笑顔が脳裏に思い浮かび――瞬は慌てて、自分の心のディスプレイから その画像データを消去した。 今朝、瞬は、ナターシャを氷河に預けて、家を出た。 午後からカミュが 家に来てくれることになっていた。 ナターシャは、おじいちゃんと遊べるというので うきうきしていた。 その後のことは、『2時半、カミュ着。新しい仕入れ業者との打ち合わせのため、ナターシャをカミュに預けて、3時に家を出る』という氷河からのメッセージを、3時少し前に受け取ったきり、聞いていない。 便りのないのは、よい便り。 連絡がないのは無事の証拠と考えて、瞬は夕方まで仕事に勤しんでいたのだが、どうやら そうではなかったようだった。 「どうしたの」 顔見知りの客に会釈をして、瞬はカウンターの端の席に腰を下ろした。 カミュの存在が商売の邪魔をしているのは明白で、いつもより確実に店内の客の数は少ない。 長居できる雰囲気ではないので、一杯だけで帰っている客が多いのだろう。 混んでいないのを幸い、氷河とシュラが、完全に凍りつく前のカミュと 蘭子に預ける前のナターシャから聞き出した、今日の午後3時以降のカミュとナターシャの行動を、瞬に語ってくれた。 それによると。 最近 入手が難しくなってきた国産のウィスキーの新しい仕入れ先を開拓しようとしていた氷河は、目星をつけていた仕入先の営業担当と話をするために、瞬に連絡した通り、ナターシャをカミュに預けて、3時過ぎに家を出たのだそうだった。 おじいちゃんと遊べるというので、ナターシャは嬉しそうだったが、カミュはそれ以上。 なにしろ、ナターシャのパパとマーマ抜きで一人でナターシャを預かるのは、カミュは 今日が初めてだったのだ。 責任重大、やる気満々。 可愛い孫娘を しっかり守り、楽しい時を過ごさせようと、カミュは かなり気負っていた――孫娘に好かれようとして、彼は かなり気負っていたらしい。 仕事に向かう氷河を見送ったあと、カミュは、外に出掛けようと ナターシャを誘った。 お出掛け好きのナターシャは、一も二もなく大賛成。 てっきり光が丘公園に行くのだと思っていたら、公園の ちびっこ広場を通り過ぎ、到着したのは光が丘駅。 電車に乗るのが大好きなナターシャは、どこに行くのか わくわくしながら、おじいちゃんと一緒に電車に乗り込んだのだそうだった。 二人は、新宿駅で下車。 カミュの目的地は、新宿のI百貨店 子供服フロアだった。 カミュは、おそらく 事前に入念な下調べをしていたのだろう。 グッチ・チルドレンズ、ディオール、ポンポワン、ドルチェ&ガッバーナ、メゾピアノ、コムサデモード、ラルフローレン・チルドレンズ、モンクレール・アンファン、等々等々。 新宿のI百貨店 子供服フロアといえば、子供服のラグジュアリーブランドの充実振りが都内でも傑出しており、だからこそ、子供を持つ親たちには、不用意に近付くべきではないと恐れられている超危険地帯だった。 その超危険地帯に連れていってもらい、期待に瞳を輝かせたナターシャに、カミュは、どれでも好きな服を買ってやると宣言した(らしい)。 期待を裏切らないカミュの言葉に歓喜して、ナターシャは、広い子供服売り場を 北から南、西から東へと精力的に駆けまわった(らしい)。 超危険地帯でのナターシャの活動量は、黄金聖闘士のカミュが後を追うだけで精一杯というほどだった(らしい)。 それほどに I百貨店の子供服フロアは広大で、置かれているアイテム数は多く、ナターシャは目移りして、なかなか どれか1着に決めることができなかった(これは いつものことである)。 無限といっていいアイテムの中から、最終候補として5着に絞り込み、その中の どれを買ってもらおうか悩み出したナターシャに、カミュは、『悩む必要はない。気に入ったものをすべて買ってやる』と言ったのだそうだった。 ナターシャは、その言葉にびっくり仰天。 瞳を大きく見開いて、カミュの顔を見上げた。 そして、尋ねたのだそうだった。 「おじいちゃんは、ものすごい お金持ちなの? マーマより? 沙織サンより?」 と。 可愛い孫娘に、 『私自身は文無しだが、瞬に カードをもらった』と、本当のことを言えなかったのだろうカミュ(無職)は、 「ほどほどかな」 と答えて、お茶を濁したらしい。 そして、ナターシャに、 「毎日、違う洋服を着れたら嬉しいだろう?」 と言って微笑んだ――。 その時のことを、カミュは、半分凍りついたような顔で、 「その途端に、ナターシャの顔が、聖域の女聖闘士たちのように険しくなってしまったんだ……!」 と、シュラに訴えた(泣きついた)のだそうだった。 そして ナターシャは、その時のことを、 「おじいちゃんが、ナターシャのために 悪い おじいちゃんになっちゃうって、ナターシャ、思ったノ。おじいちゃんを いいおじいちゃんにしなくちゃって、ナターシャ、思ったんダヨ!」 と、パパに報告した。 おじいちゃんのために険しい顔になったナターシャは、おじいちゃんと繋いでいた手を解き、 「ナターシャは、着せ替え人形じゃないヨ。沙織サンは、日本で一番か二番くらいの大金持ちだけど、毎日 違うお洋服を着たりしないヨ!」 と、見事なまでに すがすがしく言い放ったらしい。 そうして、ナターシャの発言に、瞳を大きく開いたのは、今度は 水と氷の魔術師の方だったのだ。 「ナターシャのパパとマーマは、ほんとはナターシャと遊んでいたいのに、それを我慢して 毎日お仕事に行って、自分は飲まないで お客さんのためにお酒を作ったり、自分は健康なのに 病気で苦しんでいる人と一緒に病気と戦ったりして、働いてるんダヨ。そのお仕事のご褒美に、パパとマーマはお給料をもらう。お金を手に入れるのは すごく大変で、だから、お金は大切に使わなきゃならない。ナターシャのお洋服を1着買うために、パパは丸1日働くんダヨ。ナターシャは綺麗なお洋服なんかなくても、パパがナターシャと1日遊んでくれる方が嬉しい。でも、パパはナターシャを裸んぼにしておけないから、ナターシャのために働いてくれてるんダヨ!」 そう告げるナターシャの顔は、自称クールな氷雪の聖闘士ごときには太刀打ちできないほど、厳しく険しいものだったらしい。 ナターシャが笑顔で そう言ったのだったとしても、カミュが受けたダメージが軽くなることはなかっただろうが、ともかく ナターシャの顔が大真面目で真剣だったので、カミュは笑いながら謝って その場をしのぐという大人の解決法を用いることができなかったらしかった。 「ナターシャ、お洋服は、パパとマーマと一緒に お洋服屋さんに行って、いいなあって思ったのの中から、どれか1着だけを買ってもらう。パパと一緒に うんと悩んで、マーマに動きにくくないか チェックしてもらって、それでOKが出た1着だけを 買ってもらう。たくさんのお洋服の中から、うんと悩んで選んだ、特別な1着だから、嬉しいんダヨ。いっぱいすぎると嬉しくないヨ」 ナターシャは、子供らしく正直に、率直に、自分の思うところをカミュに告げた。 瞬の薫育によって、ナターシャは、あまり子供らしいとは言い難い“我慢”の美徳を備えている。 潔癖な子供らしく、ナターシャは、なあなあで その場をごまかすことができなかったのだ。 ナターシャは、自分が口にした言葉が、おじいちゃんの心を深く傷付けるとは思ってもいなかった。 ナターシャは、おじいちゃんのために、おじいちゃんに いいおじいちゃんでいてほしいから、おじいちゃんを責めたのだ。 問題は むしろ、彼女のおじいちゃんが、子供より傷付きやすい心を持った繊細な大人だったということの方だったかもしれない。 「ナターシャ……」 「ナターシャ、お洋服いらない。よその人に何かあげるって言われても、マーマが もらっていいよって言ってくれなきゃ、ナターシャは、おやつも おもちゃも お洋服も もらっちゃダメなんダヨ」 生真面目な顔のナターシャに、そう言われた時のカミュの衝撃は いかばかりだったか。 可愛い可愛い孫娘に、“よその人”と言われ、よその人を見る目で見られることに比べたら、アイオロス教皇の放つ幻朧魔神拳ごときは、温かく優しい春の微風でしかなかったに違いない。 そこから、カミュがナターシャを押上の氷河の店まで 何とか連れてくることができたのは、心が砕け、聖衣が砕けたあとにも、彼には かろうじて命だけは残っていたから――だったろう。 光が丘ではなく 押上に向かったのは、カミュの中に、『“家”ではなく“パパ”から預かったナターシャ』という意識があったせいだったのかもしれない。 |