カウンター席を立ち、カミュの側に歩み寄っていく。 「カミュ先生」 氷河の師にして、ナターシャのおじいちゃん。 呼び捨てにはできず、だが『カミュさん』とも呼びにくく――瞬は、当座の呼称として『カミュ先生』を採用した。 凍りついていた周囲の空気の一角を融かされたので、彼は、瞬が来たことに気付いたらしい。 ナターシャの発言の半ば以上が瞬の教えなのだろうと、カミュは それも察しているようだった。 瞬が言葉を口にする前に、カミュは力ない声で――冷たく凍る力もないような声で――半分 自分に言い聞かせるように、瞬に告げた。 「ナターシャに軽蔑された。私はナターシャのおじいちゃん失格なのだ」 「そんなことはありませんよ」 「だが、ナターシャは――」 『ナターシャは、着せ替え人形じゃないヨ』 毎日 着替えられるほど たくさんの洋服より、悩み抜いて選んだ たった1着が嬉しいと、ナターシャはカミュに言った。 『全部 買ってやる』と言ったカミュを、ナターシャは、『おじいちゃんが買ってくれる服はいらない』と言って 拒んだのだ。 氷河が一人で育てている少女なら、喜んだはずだった。 『欲しい服を欲しいだけ』 大抵の少女は喜ぶだろう。 だが、ナターシャは、バルゴの瞬が、その養育に積極的に関わっている少女。 カミュは、瞬が育てている子供を 見くびっていたのだ。 「そうですね。洋服に限らず、玩具も、食べ物も、あれもこれもと際限なく買い与えるのは、ナターシャちゃんのためによくありません。本当に欲しいものを一つだけ、必要なものを必要なだけ。それが我が家の教育方針です」 「それは正しい。正しいと思うんだ。私はただ、ナターシャの喜ぶ顔が見たくて――」 必ずしも 氷河の良い師ではなかった自分の厚意を喜び、氷河の娘が『おじいちゃん、大好き!』と言ってくれたら、どんなに嬉しいだろう。 氷河の 良い師にはなれなかったことを、師でありながら氷河を悲しませたことを、ナターシャの笑顔が帳消しにしてくれるのではないか。 カミュは、そんな夢を見てしまったのだ。 だが、その夢は叶わなかった――。 「氷河にしてやれなかった分も?」 瞬が問うと、カミュは 一瞬 はっとしたように瞳を見開き、そして悲しげに 唇を噛んだ。 「君は、何でも お見通しなのだな」 「カミュ先生は、氷河を指導し聖闘士に育ててくれた人。どんな人なのか、大体 察しはつきますよ」 「どんな人間だと――」 “察し”たのかを、彼は聞きたいのだろうか。 『愛情深い人』 『人と 上辺だけの いい加減な付き合いができない人』 褒め言葉にすることもできたのだが、瞬は あえて、耳当たりのいい言葉を使わなかった。 「クールクールと、日々 自分に言い聞かせていないと、すぐ愛に溺れてしまうタイプ。ううん。クールクールと言い聞かせても、愛に溺れてしまうタイプ。かな」 クールを標榜しているカミュには、その“察し”は屈辱的なものなのかもしれないが、事実なので仕方がない。 カミュも、本気で自覚がないわけではなかったのだろう。 彼は、微かに 気まずそうな顔になった。 氷河に似て、その様子が 可愛らしかったので、瞬は つい、くすくすと声を上げて笑ってしまったのである。 「では、カミュ先生。ナターシャちゃんのために、ナターシャちゃんに いちばん似合うと思う1着を選んで、その1着を ナターシャちゃんにプレゼントしてください。ナターシャちゃんは、たった1着だから嬉しいと言ったんでしょう? カミュおじいちゃん厳選の1着。きっとナターシャちゃんは大喜びしますよ」 「ナターシャが喜んでくれる?」 「ええ」 「だが、ナターシャはもう……」 ナターシャは、彼女のおじいちゃんを、“大人のくせに、お金の価値も意味も知らない人”と判断し、軽蔑しているに違いない。 その評価を覆すには、ナターシャの目の前で、地上世界を救うために自らの命を投げ出すくらいのことをしなければならないだろう。 そうすることができるなら、喜んで そうするが、そんなに都合のいい状況は そうそう現出するものではない。 つまり、自分は永遠にナターシャに軽蔑されたまま、汚名を返上し、名誉を回復することはできないのだ――。 そう決めつけて、また負のオーラを生み始めたカミュに、もはや 瞬は遠慮せずに はっきりと笑った。 師弟といっても、つまりは血の繋がりのない赤の他人同士。 その二人が、どうしてこんなに似ているのか。 『笑うな』と言う方が無理な話である。 「ナターシャちゃんは、カミュ先生を嫌っていませんし、軽蔑してもいませんよ。ナターシャちゃんは、氷河が大好きですから」 「氷河?」 ナターシャに軽蔑されているのは、現水瓶座の黄金聖闘士ではなく、前水瓶座の黄金聖闘士。 氷河のことを話していたつもりはないのに、現乙女座の黄金聖闘士は 何を言っているのか。 そんな目をして 現乙女座の黄金聖闘士を見る前水瓶座の黄金聖闘士に、瞬は自分が笑っている訳を教えてやったのである。 似ていることが こんなにも微笑ましい師弟というものは、そうそう ないのではないか。 そう思いながら。 「ナターシャちゃんを引き取ったばかりの頃、氷河も 今のカミュ先生と おんなじだったんですよ。次から次に ナターシャちゃんに 洋服やら玩具やらを買い与えて、僕に こっぴどく叱られたんです。ナターシャちゃんの躾も兼ねて、ナターシャちゃんにも それが なぜいけないことなのかわかるように、僕は、ナターシャちゃんのいるところで、氷河を叱りました。それは正しい愛ではないし、本当の優しさでもないと。それから、氷河は、洋服や玩具を買う時には、ナターシャちゃんと一緒に慎重に吟味するようになったんです」 クールとは名ばかりの水と氷の魔術師は 思い込みが激しく、情に溺れやすいところはあるが、愚鈍なわけではない。 むしろ、頭の回転は速い。 瞬の話の意味を、彼は即座に理解した。 そして、自分の現況は決して絶望的なものではないのだということに、彼は 気付いたようだった。 「マーマから OKをもらえるものを?」 「ええ」 「憎まれ役も大変だな。君には慣れない役どころだろうに」 自分が憎まれ役を演じているのだということを、カミュに言われて、瞬は初めて気付いた――否、そういう見方があることに、初めて気付いた。 自分が憎まれ役を演じているという意識は、瞬には全くなかったのだ。 カミュに そう見られていると知った今も、その意識はない――持てない。 ただ、ナターシャのためを思えば、瞬は どうしても、彼女に厳しく振舞わないわけにはいかなかった。 “ナターシャのため”は、“彼女を愛する氷河のため”でもある。 「マーマですから」 微笑して、瞬は頷いた。 「氷河とナターシャちゃんは、ほしいものを何でも ぽんぽん買い与えるより、ほしいものを何でも買ってもらえるより、厳選吟味してから買う方が楽しいと気付いたようですよ。パパと娘で 頭を突き合わせて、どれが いちばんいいか、じっくり 話し合って決めるんです。楽しいゲームみたいなものですよ」 「楽しいゲーム、か……」 確かに、そのゲームは楽しそうだった。 最後に支払いだけをする傍観者でいるより、ナターシャと共にゲームに興じる参加者になった方が、ナターシャも おじいちゃんに より親しみを覚えてくれるに違いない。 だが――。 だが、一度は軽蔑の対象になった おじいちゃんに、ナターシャは名誉回復の機会を与えてくれるだろうか。 一度は軽蔑や嫌悪の感情を抱いた人間に、何の わだかまりもなく接することができるようになることは、大人にも難しいのに。 ひたすら まっすぐ率直に素直に生きている幼い少女には、人の―― 大人の――過ちを認め許すことができるのか。 祖父と孫娘の関係修復は可能なのか――。 前途に明るい希望の光を見い出すことができず、カミュが その瞼に翳りの色を帯びた時。 バーのドアが開いて、希望の光が射し込んできた。 瞬の登場で 状況は好転すると判断した氷河が、ナターシャを店に戻すよう、蘭子に連絡を入れていたらしい。 ちょうどいいタイミングでのナターシャの帰還。 瞬は、蘭子に会釈をして、ナターシャをカミュのいるテーブルの方に手招いた。 「はい。ナターシャちゃん。カミュおじいちゃんは、ナターシャちゃんのいい子の立派な おじいちゃんになってくれるって」 ひたすら まっすぐ率直に素直に生きている幼い少女は、大人の犯した過ちを認め許すことができるのか。 その疑念への答えが、ナターシャからカミュに手渡される。 ただ ひたすら まっすぐ率直に素直に生きているナターシャは、カミュの反省と更生を、ただ ひたすら まっすぐ率直に素直に受け入れ 喜んでくれたのである。 おじいちゃんの いい子宣言を 瞬に知らされたナターシャは、途端に ぱっと明るく瞳を輝かせた。 そして、こうなることは最初から わかっていたというかのように元気よく、カミュが着いているテーブルの脇に駆けてきた。 「おじいちゃん、よかったヨ! パパも、マーマに叱られてから、いい子のパパになったんダヨ!」 そう言って ナターシャは、マーマを見、今は いい子になったパパを見、再び その視線をカミュの許に戻してきた。 「明日、おじいちゃんとナターシャちゃんで、今年の よそ行きお洋服1号を買いに行けばいい」 「マーマは? マーマもカントクに来る?」 「ナターシャちゃんが、僕の分も、おじいちゃんをカントクしてあげて。ナターシャちゃんならできるよね?」 「まっかしといてダヨ!」 ナターシャが、右手で小さな握りこぶしを作り、“ナターシャに おまかせ”のポーズを作る。 そうしてから、ナターシャは、カミュが座っているテーブルの向かいの席に弾むように腰掛けた。 「おじいちゃん。明日、ナターシャとお洋服屋さんに行こうネ!」 おじいちゃんを お買い物に誘うナターシャは満面の笑顔。 ナターシャに嫌われていない。軽蔑されてない。 もし ナターシャの中に おじいちゃんを“悪い子”と思う気持ちがあったとしても、それはマーマに叱られて いい子になる決意をした時点で、綺麗に消えてしまったのだ。 ナターシャは、ただ ひたすら まっすぐ率直に素直に生きている心優しい女の子だから。 カミュの瞳が涙で潤み始める。 一度は絶望の淵の奥底に沈み込んだ身。 ナターシャの小さな手でイイコイイコしてもらったカミュは、天にも昇る気持ち――昇った天を突き抜けて、水瓶座のサダルスウド――幸運の中の幸運――に達した気分だったろう。 |