「僕のおじいちゃんは絵描きだったんです。うちには、子供が読むような絵本は1冊もないけど、画集はいっぱいある。おじいちゃんの絵は 描き上がる側から どっかに持っていかれちゃったから、おじいちゃんが どんな絵を描いてたのかは知らないけど、代わりに 僕たちは、おじいちゃんの本棚の画集を見て育った。美貴の お気に入りは、ジョバンニ・サヴォルドの描いた大天使ラファエルで、初めて その絵を見た時から ずっと、美貴はラファエルに憧れてる。ラファエルなら、自分を治してくれると思っている。ううん、ラファエルにしか治せないと思い込んでるんだ。でも、美貴は、もしかしたら……もしかしたら今は――もっと小さい頃はそうじゃなかったかもしれないけど今は――ほんとは天使なんていないんだって思ってる……」

彼の小さな妹が、天使が実在しないことを知っていて、その上で、自分の病気は大天使ラファエルにしか治せないと思っているのなら、彼女は 自分の心身と人生を壊しつつある病気から解放されることを望んでいないということなのだろうか。
そうなのかもしれなかった。
そして、貴仁少年は、そうなのだろうことを察している。

「でも、美貴は きっと、ラファエルに言われたら、勇気を出して 外に出ていこうとしてくれる。憧れてた天使、ほんとは いないんだって思ってるからこそ逆に、もし天使に会えたら、美貴は、天使の言うことを信じると思うんだ。美貴の病気を 治してくれなんて言わない。美貴に会って、励まして、学校に行くように言ってくれるだけでいいんです。お願いします!」
貴仁少年は、そう言って、米つきバッタのように勢いよく 瞬に向かって 頭を下げた。
ソファの彼の隣りに座っていたナターシャが 驚いて、センターテーブルを挟んで向かい側の席に着いている氷河と瞬の顔を見上げ、見詰める。
瞬は すぐには貴仁少年に 返答できず、その瞬の隣りで氷河は、サイドテーブルに置いていたパソコンを自分の膝の上に持ってきた。

氷河が、『サヴォルド ラファエル』で検索すると、パソコンの画面には、ローマのボルゲーゼ美術館所蔵のジョバンニ・ジローラモ・サヴォルドが描いた『大天使ラファエルとトビアス』の絵が ずらりと並んだ。
癒しの天使ラファエルは、病人と旅人の守護天使でもある。
サヴォルドの絵の中で、純白の大きな翼を持った 癒しの天使ラファエルは、トビトの息子トビアスに、彼の為すべきこと告げ、彼が進むべき道を指し示していた。
ラファエルの指示に従うことによって、トビアスは、彼の父親の眼病を治し、彼の妻となる女性から悪魔を祓うことに成功する。

サヴォルドの描いたラファエルは、顔立ちは優しげで、多分に女性的。
その表情は慈愛に満ちている。
頭上に光輪は描かれておらず、翼がなければ、聖母と見紛うようなラファエル像になっていた。
「似ているか? 瞬の方が綺麗だろう」
言いながら、氷河が、その絵をプロジェクタースクリーンに映し出す。
ナターシャは、絵に描かれているラファエルとマーマのどちらが より綺麗かということより、大天使の背中にある白い翼の大きさに驚き、目を奪われてしまったようだった。
ナターシャは、天使の翼というものは、キューピッドのそれのように 小振りで可愛いものと思い込んでいたのだろう。

「絵に 似てなくてもいいんです。癒しの天使と言われて、そうに違いないと信じられるくらい綺麗なら、それで――」
「なら、なおさら――なぜ僕に……? 天使のように綺麗な人は、他に いくらでもいるでしょう」
「いません」
少年が、一瞬のためらいもなく即答する。
はっきりした彼の その態度が、氷河の気に入ったようだった。
氷河は それまで、間違いなく、貴仁少年を胡散臭く思っていたのだが、彼を胡散臭う その気持ちが、少年の即答で瞬時に消えてしまったらしい。
「サヴォルドのラファエルには似てなくていいし、サヴォルドのラファエルより綺麗なら、その方が もっとずっといいんです」
貴仁少年は、氷河の『瞬の方が綺麗だ』という意見に、全面的に賛成しているのだ。
氷河としても、文句の生まれようはずがない。

「でも、天使なんて、本当に どうして、僕にその役を……」
瞬は、氷河ほどには、“瞬の顔”をしばしば見ていない――凝視もしていない。
瞬の顔を見ている時間は、瞬より氷河の方が はるかに長いのだ。
今では意識することもなくなったが、幼い頃、瞬の女の子のような顔は、瞬に不利益をもたらすものでしかなく、瞬は自分の顔が好きではなかった。
当然 瞬は、自分の顔を『女みたいな顔らしい』とは思っていたが、『綺麗だ』とは思っていなかった。
ゆえに、自分が天使に比されるなど、思いもよらないことだったのだ。
瞬の疑念に対する貴仁少年の答えは、もっと思いがけないものだったが。

貴仁少年は、
「……さっき、公園で 初めて見た時、翼があるように見えたんです」
と答えてきたのだ。
“妹が天使がいないことを知っている”ことを知っている貴仁少年が、
「瞬さんは、天使なんじゃないですか? 本当は天使なんでしょう?」
と、真顔で問うてくる。

「は?」
「違うんですか?」
「僕は人間だよ。ごく普通の。さすがに天使に見間違われたことはないかな」
「でも、すごく綺麗だし、すごく優しそうで、目が綺麗で、光でできてるみたいな翼――本当に……本当に、翼があるように見えたんだ。サヴォルドのラファエルの翼より大きくて、きらきら光ってる翼」
「……」

貴仁少年は、冗談を言っているようには見えなかった。
もしかしたら、光の加減で何かが翼のように見えたのか、あるいは、彼には小宇宙を感じ取る力があって、それが翼に酷似して見えたのか。
天使を求める気持ちが強すぎて、その強い願いが貴仁少年の中に そんな錯覚を生んだということも考えられた。
いずれにしても、瞬に翼はない。
それが事実である。

「それは錯覚でしょう。……氷河じゃなく?」
ふと思いついて、貴仁少年に尋ねてみる。
少年は、瞬と氷河を見比べて、首を左右に振った。
そして、
「違う、瞬さんの方」
と断言する。

少年が天使と見間違えたのは 金髪男の方ではないのかという疑念を、なぜ瞬が思いついたのかを察して、氷河は肩をすくめた。
「天使と白鳥の翼は違うだろう」
「だとしても、僕に翼なんて……」
青銅聖闘士だった頃、それは、瞬にだけないものだった。
白鳥にも鳳凰にも龍にも天馬にも翼があり、彼等は飛翔する。
瞬だけが 飛べないもの。大地に繋がれた人間だったのだ。
そのことに――そんなことに引け目を感じていたわけではないのだが、そんなことを思っていた時期もあったので、元アンドロメダ座の聖闘士を天使と見紛ったという少年の言葉が、瞬には奇異なものに思われたのだ。
『なぜ、よりにもよって 僕なのか』と。

瞬は あり得ない錯視だと思っていることを、氷河は 至極 真っ当な錯視だと思ったらしい。
錯視に変わりはないというのに――氷河は貴仁少年の目を褒めた。
「坊主。瞬をご指名とは、見る目のある奴だと褒めてやろう。瞬が それらしい恰好をすれば、神にも天使にも見えるだろうが、普段着の瞬を見て、瞬の特別な美しさに気付くとは、実にいい目を持っている。瞬は優しいから、おまえとおまえの妹のために天使の振りでも何でも してやるだろうが、おまえの妹を学校に通わせることが おまえの目的で願いなら、それはおまえの親が為すべきことだ」

氷河にしては、実に真っ当な発言である。
愛以外の法律を認めていないような氷河でも、実際に子供の親をしていると、常識というものが備わってくるらしい。
瞬は、我知らず感心してしまった。

貴仁少年の妹は、普通学級に通えないような病気でもないようであるし、小学校入学関係の各種書類は 既に彼の保護者の許に届いているはずだった。
2年に1度 あるかないかの至極真っ当で 良識と常識に満ちた氷河の助言への、貴仁少年の答えは、
「お母さんは、行きたくないなら 学校なんか行かなくてもいいって言ってる。父はいません」
だった。

貴仁少年は、謙譲の敬語を使えるから、自分の父親のことを『父』と呼んだのではない。
妹に悪い影響をしか与えないような母親を、彼はずっと、『お母さん』と呼んでいたのだ。
にもかかわらず、父親は『お父さん』ではなく『父』。
それは敬語ではなく――自分の身内を へりくだって表現したのではなく――貴仁少年は、むしろ、自身の実父を他人のように突き放したのである。
『お』や『さん』をつけないことで尊敬していないことを表わした、それは“非尊敬語”とでも言うべき表現だった。

「必ず力になるから」
貴仁少年に そう約束し、彼を いったん帰宅させた瞬が、その後 最初にしたことは、貴仁少年の妹の主治医の話を聞くために、医師のアポイントメントを取ることだった。






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