貴仁少年の妹の主治医は すぐにわかった。
貴仁少年は、『石宇(いしう)先生』という名しか知らなかったのだが、“石宇”という苗字が珍しく、その名を冠する病院どころか医師が、日本国内には一人しかいなかったのだ。

石宇医院は、医師一人だけの個人開業医。
瞬の勤める光が丘病院とも、近隣医院として病診連携で繋がっており、瞬が会いたいと連絡を入れると、すぐに時間を割いてくれた。
父の代から70年続いた医院だが、跡継ぎがいないので、自分の代で閉めるつもりでいると、70歳近い石宇医師は、小さな医院の待合室で、瞬に言った。
最近は、主治医として 昔から付き合いのある家への往診以外は、医療行為自体を控えているという。
とりあえずの専門は、内科、小児科。

江垣家とは、貴仁少年の亡き祖父と友人だったため、50年以上の付き合いがあり、貴仁少年の妹だけでなく、貴仁少年自身も 兄妹の母親も 彼の患者だったらしい。
幼い頃の貴仁少年は、鶏卵、小麦粉、大豆のアレルギーを抱えており、5歳の誕生日まで、自分のためのバースディケーキも食べられなかったのだと、石宇医師は 好々爺然とした顔で、瞬に教えてくれた。
石宇医師は、小児科医というより 心療内科医。否、江垣家の総合診療医だった。
それを瞬に引き継ぐつもりでいるかのように、石宇医師は、江垣家の家族の病歴から家庭環境まで、彼の知るすべての情報を教えてくれたのである。

「江垣さんは――貴仁くんたちのお母様のお父様は、私より10歳ほど年上で、高名な洋画家でした。貴仁くんたちのお父さんは 江垣さんの弟子の一人で、江垣さんの家に婿養子に入ったんですよ。貴仁くんと美貴ちゃんは5歳違いで、貴仁くんが生まれた頃は、江垣画伯も画伯の奥様も生きていらして、家庭も円満でした。ところが、画伯と大奥様が相次いで亡くなって――その1年後、貴仁くんが5歳になった頃、妊娠していた若奥様が 予定日より10日も早く産気づいたんです。何とか無事に美貴ちゃんが生まれたんですが、そのことを知らせようとしても、なかなか ご夫君に連絡がつかない。携帯電話の電源は、ずっと切られたまま。それもそのはず。若奥様が命がけの出産に臨んでいた時、ご主人は愛人のところにいたんですよ。それも、数人いるうちの中の一人だったと、あとでわかった」

「は……」
まさか、そんな昭和初期のメロドラマのような話を聞かされることになろうとは。
瞬はなぜか――第二次大戦後の無頼派の作家たちの生き様(作品ではない)を思い浮かべていた。

「師匠である江垣画伯が存命だった頃は、その才能の方はお粗末でも、誠実で控えめな婿さんで――だからこそ 画伯も、才能がなくても お嬢さんの婿に迎えたわけですが、それが 猫をかぶってたんですな。画伯が亡くなったら、本性を出してきた」

そして、主治医とはいえ、赤の他人でありながら、江垣家の事情を そこまで知っている石宇医師。
個人情報保護や医師の守秘義務が厳しい現代では、たとえ主治医でも、患者の家庭に そこまで立ち入ることは常識的に考えられない。
石宇医師は、かなり 古いタイプの医師のようだった。

「画伯が歳が行ってからの一粒種で、蝶よ花よと育てられたせいもあって、若奥様は世間知らずの箱入り娘。ご夫君との結婚も、親に言われるまま、親の選んだ相手に間違いがあるはずがないと信じ切ってのことだったので、夫君の不貞がショックだったんでしょうな。絵のモデルと称して、気に入った若い女を片端から 愛人にしていたようですし。若奥様は、もともと社交的な方でなかったんですが、そのことがあってから、すっかり引きこもりになってしまった」
「それは……」
純粋培養種が 初めて接する、汚らわしい現実。
それは、彼女には大きな衝撃だったろう。

「婿殿の女癖の悪さは、一部では有名なことだったらしいんです。知っていて、皆、陰で自分を笑っていたんだと、若奥様は ひどい人間不信に――いや、あれは、最初は、恥ずかしくて人前に顔を出せないというくらいの気持ちだったかもしれない。ともかく、外に出る勇気を持てないまま、ずるずると数年。哀れなのは、美貴ちゃんですよ。美貴ちゃんが生まれなければ、幸せなままでいられたという思いが そうさせるのかもしれませんが、美貴ちゃんの育児は すべて使用人任せで――」
「では、もしかして、美貴ちゃんは健康体なんですか? 貴仁くんは、美貴ちゃんは ほぼ寝たきりだと言っていましたが」
昭和のメロドラマのあらすじは これ以上 聞きたくない――という気持ちも手伝って、瞬は ほとんど石宇医師の話の腰を折るようにして、貴仁少年の妹の症状(?)の方に話の向きを逸らした。
縦か横か――石宇医師が微妙な首のかしげ方をする。

「立派な名前のつく病気は持っていませんよ――今のところは。運動不足による筋力低下、不規則な睡眠、太陽光不足、愛情不足、ストレス。――等のせいで、抵抗力が低下し、虚弱児 一歩手前ですが、病弱児ではありません。強いて言うなら無気力症――いや、若奥様と同じ、勇気欠乏症です」
心療内科や精神科を専門とする医師なら、いくらでも“立派な”病名を並べ立てることができるのだろうが、石宇医師の命名した“勇気欠乏症”が江垣美貴には最適の病名なのだろう。

『医学には頼れない。頼れるのは、天使だけ』と貴仁少年が考えたのも、あながち間違いではない――さほど突拍子のない思いつきではなかったのだ。
最善の方法は、母親の勇気欠乏症を治してから、母親が娘の治療に当たることだろうが、それでは妹の小学校入学に間に合わないかもしれない。
兄は急いでいたのだ。
そして 確かに、江垣美貴は急患だった。

そんなことがあって、兄妹の父親は ほとんど家に帰ってこなくなり、少年は ともかく妹の方は、父親の顔も知らない状況らしい。
江垣夫妻が それでも離婚しないのは、子供たちの母親が、夫としても 子供たちの父親としても無能な男と別れて 新たな一歩を踏み出す勇気を持てずにいるから。
あるいは、世間体を考えて。
もしかしたら、離婚のために動く気力も活力もないから。
どちらにしても、売れない画家の父親には 慰謝料を払うこともできないのだ。

父親失格の婿殿は、生活が苦しくなると こっそり家に戻り、江垣画伯の落書きや 売れそうな資料を勝手に持ち去って金に替えているらしい。
亡き江垣画伯の著作権は すべて、画伯の娘――貴仁少年の母親が持っていて、出版すれば いまだに一定数の売上が見込める画集の出版、展示会 及び 画伯の作品を使ったグッズ、WEB上での複製展示等の使用料が 相当額あるので、夫が甲斐性無しでも、経済的に困窮はしていないのだそうだった。






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