「今は、江垣家の顧問弁護士と、画伯が存命だった頃から、結婚もせずに 江垣家に住み込みで勤めている お手伝いさんがいて、その人の差配でどうにかなっているようなんだけど、その お手伝いさんも既に後期高齢者で、いつ どうなるか わからない状況なんだって」 患者の家庭環境や職場環境をも考慮して、病気の原因と病名を突きとめるのが総合診療医の務めとはいえ、すっかり江垣家の家庭事情に詳しくなってしまった。 そのおかげで、医師として 江垣美貴を診療する必要がないことがわかったのは幸か不幸か。 これでは ただの詮索好きだと、少々 後ろめたい気持ちで、石宇医師から知らされた貴仁少年の事情を、瞬は氷河に告げたのである。 瞬が 氷河に そんな個人情報を知らせられるのも、瞬が少年の妹に医師として接する必要はないと わかったから。 医師の守秘義務に縛られていない個人として、石宇医師の噂話を聞き 第三者に洩らしただけだと主張できる立場を手に入れることができたからだった。 「そんなに長い間、娘の顔を見ずにいられる父親なんて、人間じゃないな。クロエリハクチョウのオスは、雛が孵ってから1年間はずっと、自分の背に雛を乗せて過ごすんだ。鳥でさえ そうなのに、その父親は 人非人どころか鳥類以下だ」 氷河は、親としての扶養義務違反、大人としての責任論ではなく、まず感情面で、貴仁少年の父(というより、美貴ちゃんの父親)に嫌悪と侮蔑の念を抱いたらしい。 それは、当然のことながら、兄妹の母親にも向けられた。 「父親が父親なら、母親も母親だ。おまえレベルのことをしろなんて 無理難題は言わないが、小学校入学の心配を、小学生の兄にさせるなんて、大人として、どうなんだ!」 ナターシャには、愛情過多のパパ、全方位完璧なマーマに加え、何年も先の その時を、ランドセルを3つも買い込んで待つ祖父までいる。 周囲の人間 誰も彼もに愛されているナターシャに比べ、貴仁少年の妹は。 無論、人間の運命が公平でないこと、平等でないことは、氷河も瞬も身に染みて知っている。 氷河と瞬も、不幸不運不遇なのが自分であれば、耐えることも負けないことも容易なのだ。 だが、その逆となると、二人は ひどく いたたまれない気持ちになってしまう。 虐げられた弱者でいる方が、精神的に ずっと 穏やかでいられる――と、二人は思っていた。 「美貴ちゃんは、パパに会えないノ? ドーシテ? 毎日 パパに会えなかったら、ナターシャ、寂しくて泣いちゃうヨ?」 もし自分が美貴ちゃんだったらと考えて、ナターシャは半泣き状態である。 氷河は、自身の憤りを 急いでクールの仮面で覆い隠し、パパの顔を覗き込んでくるナターシャの頭を ぽんぽんと軽く叩いた。 「ミキチャンのパパは、俺ほどカッコいいパパじゃないんだろう。もしかしたら、ものすごく腹が出ていて、ダイエット中なのかもしれん。俺だって、そうなったら、元のカッコいい俺に戻るまでナターシャには会えないと思うしな」 「エ……」 ナターシャは、信楽焼のタヌキの置き物のように 派手に腹が膨れた氷河の姿を想像してみたらしい。 しばし 甘くないチョコレートを食べてしまった時のように眉根を寄せていたが、最終的にナターシャは 首を横に振った。 「おなかが まんまるポンポンでも、ナターシャは 毎日パパに会いたい」 「ナターシャ……」 ナターシャの健気な言葉に、氷河のクールの仮面は一瞬で 剥がれ落ちた。 仮面が剥がれ落ちた上に、顔まで総崩れになってしまっては困るので、氷河は、ナターシャに気付かれぬよう、瞬にSОSを発信した。 幸せなナターシャの幸せなパパに、瞬がすぐに助け船を出す。 「ナターシャちゃん、大丈夫だよ。氷河のおなかが出っ張り始めたら、氷河が ぽんぽこタヌキになる前に、僕が厳しい食事指導を始めるから。氷河は いつまでも、ナターシャちゃんのカッコいいパパのままだよ」 「あ、ソッカ! マーマがいれば、パパは いつまでもカッコいいパパのままダヨ。マーマがいれば、ナターシャもずっと可愛いナターシャでいられるヨ。パパ、大丈夫ダヨ!」 「瞬の食事制限は厳しいからな」 ナターシャの前で顔面崩壊せずに済んだ氷河が、クールの仮面(むしろ、お面)をつけ直す。 不幸と不運と不遇が日常だった幼い頃。 今は こんなにも幸福な家庭の中にいることが嬉しくて、苦しいから――。 瞬は、せめて貴仁少年の憂いを取り除くことだけはしてやりたいと思ったのである。 |