清潔で純白なのに、なぜか白衣は天使の衣装としては不適切。
白衣は、天使ぽくなかった。
別に天使のコスプレをしようというのではないのだからと 開き直って、瞬は ごく普通の人間の衣服――白いオーバーコートを着て、江垣家に向かったのである。

区内の、広い庭を持つ古い洋館。
2月の夕方、外は雪。
雪は、演出のために 氷河が降らせてくれた。
2階の子供部屋のベランダと室内の間は、全面ガラス張りの引き戸で区切られていて、まだカーテンは引かれていない。
貴仁少年と彼の妹のいる子供部屋は、ベッドにソファ、クッションに何冊もの画集、古びた人形や画材が無秩序に散らばっている、まさにカオスな部屋だった。
貴仁少年の妹は、ベッドの片側にクッションを幾つも積み上げて、そこに上半身をもたせかけるようにして眠っている――座っている。
それは 小さい時に贖った幼児用ベッドを、ある程度 背が伸びてからも使い続けるための工夫であるらしい。
江垣夫人は、子供の成長に合わせて ベッドを大きなものに替えることすら怠っているようだった。

貴仁少年は、今日 瞬が訪ねてくることは知らされていたが、まさか2階のベランダから やってくるとは思っていなかったらしく、想定外の瞬の登場に、暫時 ぽかんと呆けた顔になった。
妹思いの優しい兄に にこりと微笑んでから、瞬は その小宇宙を燃やした。
美貴ちゃんが、兄と同じ目を持っている子供なら、それを天使の翼を見誤ってくれるかもしれない――と考えて。
瞬の思惑が図に当たったのか、滅多に陽光に当たらないせいで異様に白い肌をした痩せっぽちの少女の瞬への第一声は、
「天使様?」
だった。
瞬が頷く。

「君のお兄さんに頼まれて、君に会いに来たんだ」
「お兄ちゃんに頼まれて?」
「うん。悪魔の呪いを解く秘密の鍵を探し求める旅人のように必死に、君のお兄さんは 天使を探した。君の幸福を願う貴仁くんの優しい心に打たれて、僕はここに来たんだよ」
「お兄ちゃんが……」

白い肌。長い髪。澄んで大きな瞳。
一般的には美少女の条件とされるものを 幾つも備えているにもかかわらず、江垣美貴は 到底 美しいとは言い難い少女だった。
それは、彼女の顔にも身体にも 子供らしい丸みがないからだったろう。
成長期だというのに、ほとんど運動をしないから、空腹感を覚えず、食欲が湧かないのだ。
彼女は ひどく痩せていた。
表情も豊かとはいえず、全体的に 干からびている印象。
生気がない。
死者だというのに 輝くような生気に満ちているナターシャとは、あまりに対照的。まさに天と地ほどの差があった。

だが、貴仁少年には、幸福の中で明るく輝いているナターシャより、生気のない妹の方が大切で可愛くて、もしかしたら 美しく見えてさえいるのかもしれない。
暗い希望としか言いようのないものを 瞳と頬に漂わせて 天使を見上げている妹を、兄が心配そうに見詰めている。

「君と君のお兄さんのために、僕にできることがあるかな? 僕は、病人を癒し、迷える旅人に行く手を示してやることが仕事だから、できることは限られているんだけど」
病人と旅人の守護者である癒しの天使ラファエルを装って 瞬が尋ねると、痩せっぽちの少女は、瞬が驚くほど力強く頷いた。
そして、言った。否、叫んだ。
「私を天国に連れていって!」
と。

それは、閉塞された現世からの逃避か、まだ見ぬ明るい世界への憧れか。
いずれにしても、瞬は、彼女の望みを叶えてやることはできなかった。
彼女のために。
そして、兄のいない世界に行くことを望む妹を、切なげな目をして見詰めている彼女の兄のために。

「君が そんなところに行ってしまったら、君のお兄さんが悲しむよ」
自分の不運と不幸に夢中になるあまり、自分以外の人間の心に考えが及ばない。
それは、子供なら―― 大人でも、よくあることである。
彼女もそうなのだろうと考えて、瞬は彼女の目と心を、彼女を愛している人の方に向けてやろうとした。
それは いらぬ世話――する必要のないことだったが。
彼女の答えは、
「お兄ちゃんのために!」
だった。
彼女が、彼女の兄に一瞥もくれずに 瞬だけを見上げていたのは、彼女の兄のためだったのだ。

「それはどうして?」
瞬が問うと、彼女は、初めて瞬から視線を逸らし、俯いた。
「だって……私がいなくなれば きっと、私のうちは普通のうちになるから……。私のうちは、私が生まれたせいでおかしくなったから……」
そう呟く彼女の声は、悲しいほど小さく細く、かすれていた。
おそらく、大好きな(もちろん、そうだったのだ)兄以外の人間の前では表情に乏しく――あるいは、ほとんど無表情で――感情らしい感情を示さない彼女の心を、何も感じない木石と誤解した大人が(もしかしたら実母が)彼女の前で そんなことを言ってしまったのだろう。
だが、彼女は木石ではなく人間で、そして 誰よりも感じやすい心を持っていた。
大人の心無い言葉に、彼女の心は傷付いた。
そして、彼女は、自分の心の傷以上に――自分のことより、兄の心を慮ったのだ。

彼女は優しい心の持ち主で、彼女の兄を愛している。
もちろん、慕い、頼ってもいる。
慕い頼っているのだが、それ以上に愛している。
それは そうである。
でなかったら、たとえ実兄であっても、普通に幸せだった家を“おかしく”してしまった妹を、貴仁少年が気遣い続けるはずがない。

「そんなことない! そんなことないよ、美貴! 悪いのは、あの男だ! お母さんだって、ひどいんだ。僕だって、何もできなかった――何もしなかった。でも、おまえは何も悪くない。おまえだけは何も悪くない。だって、おまえは、その時、生まれたばっかりの赤ん坊だったんだぞ。おまえだけは悪くない。おまえだけが悪くないんだよ!」
言葉は激しい。
だが、少年の手は、毛布の上に力なく投げ出されている妹の手を、ふわりと包んでいるだけ。
力を込めると、痩せて弱々しい妹の手を握り壊してしまうかもしれないと、心優しい兄は それを案じているようだった。

互いに負い目を抱き合い、互いを愛し、互いに気遣い合っている幼い兄と妹に、瞬は、大人の一人として 力を与えてやらなければならなかった。
そう、理性が命じる。
そして、兄に守られ愛されて大人になった弟の一人として、彼等の幸福を心から願わずにいられなくて。
せめて それらをと、感情が訴える。

「僕は……僕は、病に苦しむ人を癒し、迷える旅人に進むべき道を示す者だから、君のその願いを叶えてあげることはできない」
そうしようと意識しているわけではないのに、小宇宙が いよいよ強く大きく燃え上がり、幼い兄妹と 彼等の生きている世界を包む。
兄妹は目を(みは)って、瞬を見詰め――彼等の目には 瞬の小宇宙が天使の翼に見えているのか、光に見えているのか――ともかく、彼等の目には何かが見えている――彼等は何かを感じているようだった。

「そんなことができるわけがないでしょう? そんなことをしたら、君は もう二度と お兄さんに会えなくなるんだよ? 君のために、一生懸命 天使を探してくれた優しい お兄さんに」
「お兄ちゃんは優しいよ。優しいお兄ちゃんだから! お兄ちゃんのために!」
「うん。君の優しいお兄さんは、君がいなくなったら、とても悲しむだろうね。君を幸せにしてあげられなかったと、一生、自分を責め続ける」

瞬は、いったん言葉を区切った。
まだ小学校にも入っていない幼い少女。
彼女は、子供の話し方を忘れかけている大人の言うことを理解できているだろうか。
――と、瞬は、それを案じたのだ。
外で身体を動かして遊ぶ代わりに、思考で時間を費やしていたらしい彼女は、瞬の言うことを ちゃんと理解しているようだった。
自分の死が 兄を悲しませるだろうことを理解した彼女の瞳が、恐れの色を帯びる。

「だからね、君は、君の優しいお兄さんのために、生きて幸せになろうとしなきゃならないんだよ。そのために どうすればいいのか、真剣に考えなきゃならない。それが 君のお兄さんの幸せにつながる」
幸せになることは、実は誰にでも容易なのだが、至極 困難なことでもある。
しかし、“幸せになろうとすること”は、誰にでもできる。
そして 人は、幸せになりたいと願った時点で、8割方 幸せを実現しているのだ。
真に不幸な人間は、幸せになりたいと願うことすらできない。
生きて、幸せになりたいと願うこと。
それが 優しい兄のためだというのなら より一層、彼女には容易なことのようだった。
彼女は瞬に頷いた。
瞬も嬉しくて、笑顔になる。

「君の心を癒し 救ってくれる君の本当の天使は、君のお兄さんのことだと思う。僕もそうだった。僕は、僕の兄さんと信じられる友に支えられて、今の僕になった。大丈夫。君はきっと幸せになれるよ。君には、優しいお兄さんがいるから」
「天使様にも お兄ちゃんがいるの?」
「え」

所詮、人間による天使の振り。
長く続けていると、馬脚を現わしてしまう。
瞬は そろそろ 二人の前から退散することにした。
嘘はつけないので、
「いるよ」
という一言を残して。






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