以前、この場所で、氷河や星矢の姿を見たことがある。
あの時、彼等は、黄泉比良坂の先にある冥界の入り口の穴に向かう無数の死者たちが作る群の中の一人だった。
かつては 四方八方から 冥界に続く穴を目指す亡者たちで埋め尽くされていた黄泉比良坂に、今は、坂を上っていく死者たちの列どころか、人影の一つもない。
まるで通勤ラッシュ時の東京駅から 人間がすべて消えてしまったような無窮の静けさが、黄泉比良坂を覆い尽くしていた。
その先に、冥界がないのだから、当然のことである。

冥界消失以前なら この坂にやってきていたであろう死者たちは、今はどこに向かっているのだろう。
この地球の周辺を浮遊しているのか、天に向かって昇っているのか。
それは、死者ならぬ身の瞬には、わからない。
死者たちの列のない空漠とした黄泉比良坂の岩場に、二人の人間が寄り添い並んで座っていた。
デスマスクが、大股で、二人の側に歩み寄っていく。

「おう。俺より はるかに親切で、お節介で、力のある奴を連れてきてやったぜ。こいつは、地獄の閻魔より強い上、よっぽど非道な真似をして怒らせさえしなければ、慈母観音より優しい奴だから、何でも お願いしてみろ」
いかにも すべてを瞬に丸投げしようとしている無責任人間の言い草である。
そんな紹介をして、二人が ただの人間に過度の期待を抱いてしまったら どうするのだと、困惑の(てい)を隠さずに、瞬は二人に向かって頭を下げた。
「瞬です。はじめまして」
「あ……え……?」

普通の人は、瞬の姿を見て、地獄の閻魔より強いと思わない。
消えかけた黄泉比良坂に執着し続ける 普通でない二人の男女は、幸いなことに、人を見る目は普通のようだった。
つまり、瞬を、それほど強いとは思わず、『閻魔より強い』はデスマスクの冗談と解したらしい。
掛けていた岩から腰を上げ、肩が触れ合うか触れ合わないか――微妙な距離を保って 寄り添い立った二人は、多分に困惑気味に瞬に会釈を返してきた。

「はじめまして」
「デスマスクさんの お知り合いですか?」
本当は『どういう お知合いですか』と続けたかったに違いない。
瞬は年齢不詳。性別もわかりにくい。
しかも、デスマスクとは どんな共通項もない(ように見える)人間だった。
だが、二人は、続けたい言葉を続けなかった。
二人は 共に、かなり控え目な性格の持ち主であるように見受けられた。

瞬が見たところ、二人は 20代後半の男性と20歳前後の女性――である。
二人共、和服を着ていた。
和服といっても、華美なものではなく、襦袢のように薄く白いものである。
デスマスクが、二人を半死半生と判断したのは、二人の服装を病院の入院患者の検査着もしくは日本の真新しい死装束とでも思ったからだったのだろう。
「僕に何ができると確約はできないのですが、何かできることがあったら、力の及ぶ限りのことはしたいと思っていますので――まず、お名前を伺ってもよろしいですか」

名を問われて、最初に反応を示したのは男性の方だった。
右眉が微かに上下した。
彼は、どう見ても、名を名乗ることに ためらいを覚えていた。
それは、さして不自然なことではない。
名前は、究極の個人情報である。
会ったばかりの人間に、本名を知らせることは 不用心の極み。
名を名乗ることに ためらいを覚えるのは 至極 当然のことなのだが、彼の ためらい方は個人情報を見知らぬ人間に預けることへの ためらい方とは、常識を備えた人間として 微妙に様子が違う――と、瞬は思った(むしろ、感じた)のである。
まるで、滅多な人間に自分の名を渡すと、命にかかわる大事が起きるとでも考えているような。
そういえば、明治になって戸籍法が施行されるまで、日本では、本名を他人に知られることは生殺与奪の権を渡すことと同義と信じられていたらしい。
ナ(名)があれば、人は『シナヌ(死なぬ)』が、ナ(名)を奪われれば、人は『シヌ(死ぬ)』。

そんな、およそ どうでもいいことを、瞬が ふと思い出すことになったのは、ここが古代の日本神話の地名で呼ばれる場所だったからかもしれない。
ここが、西洋風に、地獄門に続くアベニューだったなら、瞬は そんなことは考えもしなかったに違いない。

だが、それでも、結局 彼は名を名乗った。
「私は、源 鎮といいます」
「みなもと、しずむさん? 『しずむ』というのは、珍しいお名前ですね」
「鎮痛剤の鎮ですよ。鎮める――押さえて、安定させる鎮です」
「重鎮の鎮ですね」
そう考えれば、奇をてらった名前ではない。

女性の方は、植本 華――うえもと はな。
こちらは、命名の理由もわかりやすい。
命名者は、彼女が結婚して苗字が変わった時のことは考えていなかったかもしれないが、大抵の苗字に馴染む名前である。

「私、記憶が はっきりしなくて、自分が生きているのか死んでいるのかもわからないんです。ここに来ていない時、自分が どこにいるのが、全く わからない――憶えていない。デスマスクさんは、完全に死んでいないから 私も鎮さんも ここにいるんだって言うんですけど……。私、本当は、ずっと ここに鎮さんと一緒にいたい。生き返るのは恐い。でも、デスマスクさんが、ここは いつ消えるか わからないっていうし、私は、鎮さんと一緒なら、どんなところででも 生きていけるような気がするから……」
その気持ちが恋なら、彼女は 半分 死んでいる状態で、半分死んでいる人への恋に落ちた――ということになる。
そして、おそらく、その恋に、肉体は介在していない。

「私が どんな境遇にあっても、鎮さんなら きっと許して認めてくれるような気がする。いつか私は、何も感じなくなるのだと思っていたのに、鎮さんは あっというまに、私に 命と心を取り戻させてくれた。鎮さんと一緒なら、私は きっと……」
きっと 現実世界の苦難も乗り越えられる。
二人なら、きっと。
疑いもなく、そう信じられるほどの人なのだ、彼女にとって、彼は。
たとえ どんな苦難に出会うことになっても、会えなくなるより悲しいことはないと考えて、彼女は生き返ることを決意した。
それほどの恋。
それほどの勇気を生む恋に、彼女は、よりにもよって、こんな場所で巡り会ってしまったのだ。

「鎮さんは、お優しくて、お心の強い方なんですね。華さんに、こんなに信頼されて」
「のんき者なだけです」
鎮の謙遜を、華は 8割方 真顔で否定してきた。
「鎮さんは仏様みたいに心が広いんです。激したところを一度も見たことがない。初めて ここで鎮さんに会った時、私、何が何だか わからなくて、恐くて、混乱して、ものすごく我儘を言って、取り乱して馬鹿みたいに暴れて叫んだのに」

そう告げる彼女の表情の真顔以外の2割は、笑い。それも、照れ笑いだった。
好意を抱き、親しくなって、二人で それなりの時間を過ごした。
今、二人は、半分 身内で、半分他人のような状態にあるのだ。
だから、身内を褒めることに 当惑が生じる。
完全に他人なら、手放しで、無責任に褒められるのに。
二人は、それほど 互いに親しみ馴染み合った存在――ということなのだろう。

そんな二人が、黄泉比良坂の消滅と共に 出会うことができなくなったら、それは まさに身内を失う痛みや喪失感に襲われることになるに違いない。
そして、その痛みや喪失感は、やがて絶望になる。
二人は、その事態を、何としても避けたいのだ。
そのためには、黄泉比良坂以外の場所で会えるようになる必要がある。

華は日に一度、黄泉比良坂から現世に連れ戻されるという
それは、彼女が 生に近くなったり、死に近くなったりしているということなのだろう。
彼女の身体が現世で命を保っているのなら、日々、一進一退を繰り返している状態なのかもしれなかった。

そんな華とは異なり、鎮はずっと黄泉比良坂にいる――ここから どこにも行かない。
その状況は、冥界が存在していた頃から ずっと続いていて、黄泉比良坂に冥界への穴があった時、彼は、延々と続く死者たちの行列の傍らで、『なぜ自分は あの列の中に入っていけないのだろう』と考えていたのだそうだった。
鎮は、黄泉比良坂に来る前に 自分がいた場所のことを、ぼんやりと憶えていた。
「と言っても、狭くて暗い暗闇の中なんですが……」
「あの……その狭くて暗い闇の中というのは、もしかして お墓なのでは?」

鎮は、どこから どう見ても日本人――黒い髪、黒い瞳、顔立ちもモンゴロイド――だが、黄泉比良坂にやってくる前に 彼が暮らしていた場所が日本とは限らない。
そして、世界には、火葬以外の埋葬を行なう国が多くある。
死亡したと誤認されて埋葬された、もしくは、埋葬されてから息を吹き返した――という可能性を、瞬は考えた。
埋葬された墓所が、土の中でなく、棺を並べておくだけの広い空間だったなら、そこで一定期間 生き延びることも不可能ではない。

瞬の推察に、だが、鎮は首を横に振った。
「あれは、墓の記憶ではないと思います。閉じられた空間ではなかったでしょう。問題なく呼吸はできましたし、少量ながら 食べ物や水も与えられて――手に白菊の花を持っていたことだけは、鮮明に憶えている」
墓所の次に、瞬が考えたのは、土牢、石牢の類だった。
だが、そんなところに花を持って収監されることはあるまい。
“花が供えられていた”ではなく、“花を持っていた”のなら、墓でもない。

この坂以外の場所で 自分は何者なのかということを、二人は これまでずっと考え続けてきたのだろう。
そして、相当の期間を半死半生でいる(のであろう)現世での自分の状況を思うほどに、『生者の世界での自分は幸せではないに違いない』という確信を抱くことになったのだ――おそらく。
「私たち、恐いんです。事実を知るのは。今のまま、この場所で会っていられるなら……それが いちばん嬉しい。それが 本当の望みです」
だが、その望みは もはや叶わない。
二人が出会える唯一の場所である黄泉比良坂は、遠からず 消えてしまうのだ。

「二人なら、現実が どれほど困難なものでも乗り越えられると思ってらっしゃるんでしょう? 僕、お二人を探してみますよ。できる限り、急いで。黄泉比良坂が ある日突然 ふっと消えて、お二人が会えなくなっていた――なんてことにならないように」
瞬に そう言われ、“永遠に会えなくなること”に比べたら、“(過酷かもしれない)現実を知ること”など悲しみでも苦しみでもないと、自身が確信していることを、彼女は思い出したらしい。
血の気の感じられない唇を 力強く、彼女は引き結んだ。

「お願いします。私は鎮さんと会えなくなるのだけは嫌です。それが最悪の事態です。それだけは避けたい」
切なく強い声音で言って、華が 瞬に腰を折る。
その隣りで、鎮が、痛みに耐えていることを隠している偏頭痛患者のように つらそうな眼差しを、華の上に注いでいた。






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