小ルーシに、また一人、不思議な男がやってきたのは、それから3日後。
今度の異邦人は、黒い瞳と黒い髪の一輝とは正反対。
髪は金色。瞳も、まるで猫の目のように金色。
なのに――光っているのに、ひどく印象の暗い男でした。
氷河が その男に最初に会ったのは、一輝の時と同じように、浜の家に週に1度の見回りに行った時。
いったい この家に、何があるというのでしょう。
以前 この家に住んでいた人間たちの匂いでも残っているのかと、暫時、氷河は本気で思ったのです。

金目の男は ヒュプノスという名のようでした。
彼が自己紹介したわけではなく、一輝が彼を そう呼んだのです。
金目の男は、小ルーシに来てからの一輝の行動をなぞるように、1週間前の一輝同様、週に1度の青年たちの情報交換会にやってきました。
そして、1週間前の一輝がそうだったように、情報交換会の会場である公会堂のホールで 氷河と瞬に会ったのです。
1週間早く 小ルーシにやってきていた一輝にも。

ヒュプノスは 一輝を追って、この小ルーシにやって来たようでしたが、その目的は一輝ではなく瞬だったようでした。
小ルーシの青年たちが集まる公会堂のホールで 瞬を見付けるなり、ヒュプノスは瞬に掴みかかってきた――瞬を掴まえようとしたのです。
もちろん氷河は すぐに瞬を自分の背後に避難させ、ヒュプノスは その腕を一輝に掴みあげられることになりました。
一輝に掴みあげられた腕を、ヒュプノスは、まるで魔法でも使ったかのように するりと自分の許に引き寄せて、冷ややかに――とても冷たい声で、一輝に言ったのです。

「タナトスのみか、人間のパンドラまでも倒してくれて。おまえは本当に冷酷な男だ。パンドラは おまえのことを 憎からず思っていたのに」
「あの女は、もはや人類の裏切者になりさがっていた」
「それでも、おまえと同じ人間。同胞であったろうに」
まるで自分は人間ではないというような、金目のヒュプノスの言葉。
人間である一輝とは同胞ではないらしい金色の不思議な男。
では、ヒュプノスは神だということでしょうか。
そして、一輝は神と戦おうとしているのでしょうか。
どうやら、そのようでした。
ただし、ヒュプノスの目的は瞬。

ふいに ヒュプノスの腕が、夕方の影のように不自然に長く伸びて、空中の高いところから瞬に掴みかかろうとしてきます。
「瞬に触れるなっ」
一輝が腰に携えていた剣の鞘を抜いて一閃した時には既に、ヒュプノスの不気味に長い腕は元の長さに戻っていました。

一輝が、氷河に叫びます。
「逃げろ! ここから出ろ! 巻き添えの犠牲者を出すな。氷河、瞬を守れ! 決して、この男に渡すな。この男は、人類を滅ぼそうとしている邪神の手先だ!」
神か人間か。
敵か味方か。
そのあたりのことは、氷河には よくわかりませんでした。
そのあたりのことは、全く ちっとも、少しも わかりませんでしたが、
「瞬を守れ!」
それだけは、一輝に言われるまでもないことでした。

氷河が瞬の腕を引き、公会堂の外に出ます。
それを見て、ホールに集まっていた青年たちも 雪崩を打って外に逃げ、最後に 一輝とヒュプノスが、互いを牽制し合いながら、公会堂の庭に出てきました。
狭いところでは戦いにくいという判断からのことのようでした。
けれど、その時には既に、勝敗は ほとんど決していたのです。

どちらが正義で、どちらが邪悪か。
どちらが味方で、どちらが敵か。
そんなこともわからないまま、公会堂の庭木の影に身を潜ませて 二人の戦いを見守っていた小ルーシの青年たち。
彼等の前で、意外とあっさり 勝敗は決しました。

「これは、女神アテナに授かった剣。神であろうと、おまえ程度の神なら、容易に封じることができる」
優位に立っているのは、神ではない一輝の方のようでした。
「ここはハーデスの加護のある冥界ではない。アテナの加護を受ける地上世界――人間の世界。光あふれる地上世界では、神であるタナトスより人間であるパンドラの方が まだ手強かった。貴様もそうだろう」
「アテナの……」
「タナトスに比べれば冷静な男と思っていたが、ハーデスの復活を焦るあまり、地上にやってきたのが間違いだったな。眠りを司る神ヒュプノス! あと数百年、己れが司るものに支配されていろ!」

怒鳴っているのか叫んでいるのか、ともかく大音声でそう言って、一輝は手にしていた装飾過多の長剣をヒュプノスの頭の上に振りかざし、そのまま真下に振り下ろしました。
そして、ヒュプノスの身体を真っ二つに切り裂きました。――多分。
“多分”というのは、そうなっただろうと推測できる――推測するしかない――ということです。
なにしろ、一輝が真っ二つに切り裂いたはずのヒュプノスの身体は、一輝が 彼の剣を元の鞘に収めた時にはもう、どこにもなかった――消えてしまっていたのですから。


推察するしかないのですが、一輝がヒュプノスと戦い、ヒュプノスを剣で切り裂いたのは、目撃者も大勢いる紛れもない事実です。
となれば、一輝は人殺し。
お役人に引き渡さなければなりません。
ですが、神を真っ二つに切り裂くことのできる男を お役人に引き渡すことができるほどの度胸の持ち主は、その場には一人もいませんでした。
たった一人だけ、そうしようとした青年はいたのですが、彼は、その行為を、彼の大切な人に禁じられてしまったのです。

「氷河! 一輝さんをお役人に引き渡したりしちゃ駄目だよ。氷河も見てたでしょ。一輝さんは、僕を助けるために、あのヒュプノスという人と戦って、彼を消したんだよ。僕を暗い闇から守ってくれたんだよ。僕、あの時、わかった。僕の恐い夢の正体は、あのヒュプノスっていう人だった。あの人と、あの人の仲間たちだった。一輝さんは、あの悪夢から、僕を守ってくれたんだ。氷河、一輝さんにお礼を言って!」
「……」

本音を言えば、氷河は、一輝サンに おレイなんか言いたくありませんでした。
けれど、ここで、『瞬を助けてくれて、ありがとう』と言わないと――そう言って、一輝を 瞬を助けてくれた正義の味方にしないと―― 一輝は、人(?)を殺した殺人者として捕まって、処刑されてしまうでしょう。
瞬を守った男が、そんな目に会うのはおかしいと、氷河も思ったのです。

仕方がありません。
瞬が、一輝を助けたいと言っているのです。
氷河は、
「瞬を助けてくれて、ありがとう」
と言って、一輝に頭を下げるしかありませんでした。
「本当にありがとうございました」
続いて瞬が深々と腰を折ると、それによって、たった今 ここで起こったことが何だったのかが確定しました。
すなわち。

綺麗で可愛くて、誰にでも優しく親切な瞬が、その美しさゆえに悪い神様に目をつけられ、冥界に連れていかれそうになった。
しかし、瞬の才と善き心を惜しむ女神アテナが、瞬を守る騎士を小ルーシにお遣わしになり、アテナの命を受けた正義の騎士は、女神アテナに託された剣を用いて、自らに課せられた務めを見事に果たしてのけた。
――ということに。

「瞬ちゃんを助けてくれたのなら、いい人に決まってるし」
「肝心の邪神が消えちまったんじゃ、役人に説明のしようもないしな」
物的証拠がないのでは、逮捕も起訴もできません。
小ルーシの裁判は、証拠裁判主義を原則としているのです。
もっとも、今回に限れば、心証主義が採用されていても、皆が 瞬の意見に賛成したでしょうけれどね。






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