一輝を家に招待しようという瞬の提案に、氷河は 心情的には反対でした。
ただの反対ではなく、大反対でしたが、氷河は その“心情”を言葉や態度に表わすことはしませんでした。
それは もちろん、一輝に訊きたいことがあったからです。

あのヒュプノスという金目の男は何者で、どうして 瞬を掴まえようとしていたのか。
ということも とても気になりますが、それより何より、氷河が一輝に いちばんに訊きたいこと。
それは、
「おまえは何者だ」
ということでした。
もう少し正確に言うと、
「おまえは瞬の何なんだ?」
ということでした。

ふいに、前触れもなく氷河と瞬の前に現われ、何の説明もなく、瞬を狙う邪神(?)を退治して、瞬を守ってくれた――のは わかるのですが、一輝はそれを どういう権利があって行なったのでしょう。
そういう恰好いいことは、本来、瞬を恋する男が――つまりは氷河が――行なうべきことのはず。
もし一輝が 本当に女神アテナに命令で それをしたというのなら、女神アテナは なぜ その仕事を氷河に命じなかったのか。
氷河は、一輝にも 女神アテナにも不満たらたら、不信感でいっぱいだったのです。

氷河が胸の中にくすぶらせていた不満と不信感でできた謎は、ですが、一瞬で解けました。
「俺は瞬の兄だ。貴様と違って、血の繋がった、本当の本物の兄だ」
という一言(+ 補足説明)で。
「へ」

瞬は、実は、氷河の血の繋がった実の弟ではありません。
そのことは、氷河も知っていました。
2歳か3歳の時、瞬を拾ったのは、他でもない氷河自身でしたから。
拾った時には、どこの家でも、弟や妹というものは そんなふうにやってくるものだと思っていたので、自分たちは血の繋がった実の兄弟だと信じていたのですが、ある日 ふと、そうではないことに気付いたのです。

一輝の語るところによると。
瞬は、その魂の清らかさゆえに、冥府の王ハーデスが自分の魂の器として選び、冥府の王ハーデスにふさわしい人間(器)として育てるよう、パンドラという人間の女に命じたのだそうでした。
その時、一輝は、まだ3、4歳の子供でした。
両親は既に亡く、瞬を守ってやれるのは幼い兄一人きり。
もちろん、冥府の王なんかに、大切な弟を渡すわけにはいきません。
けれど、自分一人が食べていくことすら困難な幼児に、いったい何ができるでしょう。
冥府の王の手から弟を守り抜くことができたとしても、弟を飢えて死なせてしまったら、何にもなりません。

考えた末、一輝は、ハーデスの手先であるパンドラを謀ることを思いついたのだそうでした。
ハーデスの魂の器であることを示す冥府の王のペンダントを持って、一輝が弟の側を遠く離れる。ペンダントのあるところに瞬がいると考えているパンドラは一輝を追い、瞬は どこか安全な場所に預けておく。
その“安全なところ”として、一輝が選んだのが、氷河とマーマの家だった――というのです。

「最初は、もっと金持ちの――もっと立派な家の前に置こうと思ったんだ。だが、金持ちの家の人間が 瞬を大切にしてくれるとは限らない、瞬が幸せになれるとは限らないということに気付いて、俺は 赤ん坊の瞬を抱えて、浜辺の岩陰に隠れて悩んでたんだ。その俺の前を、おまえとおまえの母親が通っていった。華美な服は着ていなかったが、信頼と愛情で結ばれているのが、その様子を見ているだけでわかる母子だった。この二人なら、この二人の家なら――と、俺は思ったんだ」
瞬は、何の証拠もないのに、一輝が自分の実兄だと信じてしまっているようでした。
マーマが 刺繍仕事の手を止めて、瞬の兄だと名乗る青年を無言で見詰めています。

「俺は、おまえたちのあとをつけて、あの浜の家――あの家の扉の脇に瞬を置いて、おまえか おまえの母が気付いてくれるのを待った。春で――着古した産着しか着せてやれなかったから、せめて と思って、薄桃色のカタバミの花を胸元に飾って、祈るような気持ちで待った――見守っていたんだ」
世界一の文明国からやって来たにしては 野卑な印象の強い男。
その野卑で武骨な男が、弟を飾るために手折った小さな薄桃色のカタバミの花。
なんて似合わないエピソードだろうと、氷河は思ったのです。
そう思わないことには――愛するがゆえに 大事な弟を他人の手に委ねなければならなかった哀れな兄に 同情してしまいそうでしたから。
他人からの同情なんて、一輝が望んでいないことは わかっていましたからね。

「少しでも早く気付いてもらうために、いっそ 瞬を泣かせてやろうかと思ったんだが、そんな ひどいこともできず、じりじりしながら 一日千秋の思いで待っていたら、おまえが出てきて、そして 瞬に気付いてくれた」
そこから、あとのことは、氷河は今でも、つい昨日のことのように はっきりと憶えていました。


「マーマ。赤ちゃんがいる! すごく 可愛い赤ちゃん。僕、ずっと妹が欲しいって、神様にお願してたから、神様が 僕の願いを叶えてくれたんだ!」
嬉しくて嬉しくて、おっかな びっくりで 抱きかかえた赤ちゃんの瞳は、大きくて綺麗で 温かい宝石のようでした。
そして、春の野に咲く花のように小さな手。
その手が、氷河の顔に向かって伸ばされてくるのです。
あまりの可愛らしさに、氷河は目がまわりそうでした。

「赤ちゃん?」
「うん。すごいよ。すごい。天使みたいに可愛い」
天使を見たこともないのに、そう言った氷河に、マーマは、
「まあ、本当。天使のように可愛らしいわね」
と答えてくれたのです。
「名前、名前、名前! 名前、何ていうの!」
この天使を早く名前で呼んでみたい氷河がマーマを急かしますと、瞬の古い産着に名前らしきものが丁寧に刺繍しているのを見付けたマーマが、その名を氷河に教えてくれました。

「瞬ちゃん――というのが、この子の名前かしら」
「瞬! 瞬だね、瞬!」
氷河が歓喜の中で 幾度も瞬の名前を読んでいた時、その様子を見守っていた一輝の心中は どんなだったでしょう。
「マーマ、マーマ、赤ちゃんは何を食べるの?」
興奮した声で そんなことを尋ねる氷河と マーマと瞬の姿が、浜の家の扉の向こうに消えていった時、一輝の心は どんなだったのでしょう。

一緒にいたいのに。
自分が自分の手で守ってやりたいのに。
瞬と一緒にいられる幸せを、自分から放棄して、よその子供に譲らなければならないなんて。
まだ幼かった瞬の兄は、どんなに つらく、どんなに悲しく、どんなに悔しかったことか。
本来は一輝のものだった幸福を全部、一輝の気持ちも知らずに全部、当たりまえのことのように自分のものにしていたことを、氷河はとても心苦しく思ったのです。
その幸福を、今更 全部、一輝に返そうとは思いませんでしたけれど――それは できない相談というものでしたけれど。

そんなふうに、氷河とマーマに瞬を預けた一輝は、瞬を冥府の王ハーデスとパンドラの目から逸らすため、ハーデスのペンダントを持って南に逃げました。
少しでも瞬から遠く離れて 瞬の身の安全を守るため、とにかく南に逃げました。
そして、アテナイに辿り着き、ハーデスと対立している女神アテナと出会い、彼女から ハーデスやハーデスの従神ヒュプノス、タナトスと戦う術を授けられ、パンドラとタナトスを倒すことができたのです。

ハーデスが冥界から出てくることは決してありませんから、瞬を冥界に連れて行こうとする者たちを すべて撃退すれば、瞬の身は守られたことになります。
ところが、最後のハーデスの部下であるヒュプノスが一輝の策に気付き、ハーデスのペンダントの移動経路を逆に辿ることを始めたのです。
ヒュプノスの動きに気付いた一輝は、急いで 小ルーシに戻ってきて――アテナの加護で、あの神を封じることができたのでした。

「じゃあ、瞬は もう、安全なんだな? 冥府の王ハーデスは もう、瞬に手出しはできないんだな?」
一輝の話が真実なら、そういうことになります。
「次にハーデスが動き出すのは二百数十年後だ」
二百数十年後の人たちには、その人たちなりに頑張ってもらうことにして。
一輝の返事を訊いて、とりあえず氷河は安心しました。
あとは、一輝が アテナのところにでも戻ってくれれば、すべては元通り。めでたしめでたしの大団円、ハッピーエンドです。
そうなるはず。そうならなければならないと、氷河は思いました。
けれど、長い時間をかけ 自分の幸せをも犠牲にして 瞬を守り抜いた一輝が何を望んでいるのかが わかるので、氷河は何も言えなかったのです。
これから瞬がどうするのかを決めるのは瞬で、氷河ではないのです。






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