室内から星矢たちの姿が消えて、俺が最初に思ったこと。
それは、『人生は いつ 何が起きるかわからない』ということだった。
明日も 今日と同じ日がやってくるとは限らない。
俺と瞬が、明日も生きているとは限らない。
今日 できることを、明日に先延ばしにすることは後悔の元。危険ですらある。
だから、元の世界、元の時代に戻ったら、俺は 真っ先に、瞬に 俺の思いを告白する。
そして、無理強いにならない程度に積極的かつ性急に、瞬を俺のものにする。
人の人生、一寸先は闇。
本当に、何が起こるか わからないんだから。

俺が、俺にしては前向きに 建設的に そんなことを考えていたのは、もしかしたら、このまま 元の世界に戻れない可能性に考えを及ばせたくないからだったかもしれない。
多分、そうだったんだろう。
だから、俺の表情は明るくなく、沈痛なものになっていたんだ。
それで、この世界の瞬は 心配することになったんだ、多分。

「氷河、まだ本調子じゃないみたいだね。もう少し、眠ってて」
そう言って、瞬が俺の右肩を とんと押す。
俺は運動の第二法則に従って、ベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。
――まではよかったんだが。
いや、そこまでは よくも悪くもなく、妥当で、普通で、自然だったんだが、その次に起こったことが、妥当でも普通でも自然でもなかった。

瞬に肩を押されて寝台に倒れ込んだ俺の上に 覆いかぶさるように、瞬が腰を屈めて、そして。
(あ……?)
そして、瞬は、俺にキスしてきたんだ。
(へ?)
それも、唇が触れるだけのキスじゃない。
(うわ)
舌が入ってくる――舌を入れるキスだ。
フレンチキスというのか、カクテルキスというのか、サーチングキスというのか、とにかくハードでディープな方のキスだ。

いくら大人になったからって、地上で最も清らかで 清純で奥手で控え目だった あの瞬が、こんなキスを知ってちゃいけない。
だいいち、あの瞬が、こんなキスを、いつ 誰に教え込まれたんだ!
「早く元気になって、ナターシャちゃんを迎えに行かないと」
こんなキスの直後に、なぜ 猫の話をする !?
理解不能で爆発寸前の脳が 破裂するのを防ぐために、
「うわあああぁぁ~っっ !!!! 」
俺は、ほぼ絶叫といっていい大音声を室内に響かせた。
そして、俺の大声は、音楽室ほど万全ではなかった その部屋の防音設備を打ち負かして、外部に洩れてしまったようだった。


「氷河っ !? 」
「何事だっ」
という言葉(音)より先に、紫龍と星矢が そこに来ていた。
ドアが開いた気配もなかったのに、いつのまにか。
――なんていう普通の(?)疑念を抱いている余裕は、その時の俺にはなかった。
その時、俺の中にあったのは、地上で最も清らかな魂の持ち主であるところの 可憐で清純な瞬が、ミドルティーンの いたいけな少年(俺のことだ)に 物凄いキスを かましてくれた――という、驚愕の事実のみ。

「し……舌を入れてきた……!」
瞬を指差して、その驚愕の事実を星矢たちに伝えた俺に、何か落ち度があっただろうか。
『どこに』、『何のために』、『どのように』を省いた俺は、冷静さを欠いていたか?
説明不足ではあったろうが、俺の説明不足の説明で、紫龍は 状況を正しく把握してくれたようだった。
「瞬先生は、重症患者の回復度合いを舌で確認するのか」
と、冷ややかな声で 瞬を問い質したところを見ると。

その抑揚のない 紫龍の非難(?)の声を聞いて、俺は気付いたんだ。
俺は、瞬のディープキスに 滅茶苦茶 驚いたが、あくまでも ただ驚いただけで、不快だったわけではないことに。
嫌だったわけじゃない。むしろ、その逆だった。
だから、俺は、『瞬を責めるな』と、紫龍に言おうとしたんだ。
ところが、大人の瞬は、大人しく 紫龍に責められてなんかいなかった。

「舌の筋肉は生命力のバロメーターだよ。舌がちゃんと動かないと、人間は、咀嚼することができず、嚥下することもできず、呼吸することもできず、コミュニケーションをとることもできない。オーラルフレイル――舌筋の衰えの症状がある人の死亡率は、舌が健康な人の2.09倍という調査結果も出ている。舌は、患者の回復度合いを見る際の 重要なチェックポイントだよ」
舌筋が そんなに重要な筋肉だったとは。
アテナの聖闘士になるために、俺は全身の鍛錬を怠らなかったつもりでいたが、舌を鍛えたことはない。
とんだ手抜かりがあったもんだ。

「おまえに勝とうと思った俺が馬鹿だった」
紫龍が、あっさり瞬に降参し、
「それでなくても氷河は 表情を作るのを面倒がって、舌筋の鍛え方が足りてないからね」
瞬が、駄目押しで追加点を入れる。
まるで漫才だ。

この場で最も冷静に状況を把握できていたのは、意外や 星矢だった(らしい)。
冗談を(?)言い合っている紫龍と瞬の前に、星矢は真面目な顔で、超根本的な疑念を提出してくれた。
すなわち、
「つーか、瞬に舌を入れられたくらいのことで驚く氷河が おかしいだろう」
という疑念を。
星矢の提示した疑念に 誰よりも驚いたのは、瞬に舌を入れられたくらいのことで驚いた この俺だった。






【next】