光が丘公園に、やけに目立つ親子がいることに気付いたのは、高校の卒業式が終わって、毎日 通わなきゃならない場所がなくなり、だらけた俺のだらけた浪人生活が本格的に始まった3月末の花見シーズンだった。 うちは両親共にフルタイムで働いてる会社員だから、俺は 昼飯は 自分で調達しなきゃならない。 高校に通ってた時みたいに、弁当を作ってくれとは言いづらい。 だから、昼は、主にコンビニ弁当や ファストフード。 予算は1食500円。 でも、朝と夜は、ちゃんとした飯が食えてるし、そもそも俺は文句を言える立場にない。 遊ぶ金はない。 バイトでもすりゃ いいんだろうけど、バイトなんか始めたら、真面目にやってない勉強が ますます疎かになるだろうと思って、それは避けた。 バイトの面接に行って落とされでもしたら、だらだらしてる自分を必死に肯定してる俺のココロのリミッターが壊れてしまうかもしれないしな。 家の中に引きこもってるのは、鬱にもなれない俺には 結構な試練で、だから俺は運動がてら、光が丘公園の中にある図書館に通って、勉強してる振りをすることにしたんだ。 図書館や公園は、金のない俺でも堂々と入っていける。 俺は、そこで彼等に出会った――というか、見掛けるようになったんだ。 3、4歳くらいの女の子と、超美男美女のパパとママ。 だらだら生きてた俺は、学校をさぼるなんて面倒なことをしたこともなかったから、平日の昼間に 公園に行くことは滅多になくて、だから、それまで出会ったことがなかったらしいんだけど、彼等は 以前から 公園に通っていたようだった。 女の子――ナターシャという名らしい。いつも大きな声で、自分の名をアピールしてるから、嫌でも覚えた――は、公園の遊具の位置や遊び方を熟知してるようだったから、多分。 ナターシャちゃんのパパとママは、9時5時勤務の会社員じゃないんだろうな。 平日の日中に見掛けることが多かった。 その親子が、何つーかもう。 パパと娘だけ、ママと娘だけでいる時も 十分 目立つんだけど、親子三人が揃った日には! まじでそこだけ空気が違うっていうか、そこにスポットライトが当たってるとしか思えないというか、とにかく華やかで目立つ親子なんだ。 パパは本物の金髪で 青い目。 どこの国出身なのかは わからないけど外国人。 でも、喋ってるのは日本語で、完全にネイティブ日本人のイントネーションだから、日本育ちの外国人なのかもしれない。 子供といる時も 大抵むすっとしていて、恐くて、迫力満点。近寄り難い雰囲気満載。 パパ友 ママ友というのはいなくて、いつも娘と二人きり(もしくは、パパとママと娘と三人きり)。 娘には甘くて、ただ見守ってるだけじゃなく、いつも一緒に遊んでやってる。 公園には あのパパのパパ友になれそうな人材はいないし、あの超イケメンがママ友を何人も作るのは公序良俗に反することだと思うから、現況は 誰にとってもベストなんだろうな。 どっちにしても、あんな美人の奥さんがいたら、他の女になんか目移りする気にもならないだろうけど。 ママの方も、ママ友は作らない方針っぽい。 でも、ママ友の群れのなかにいなくても、あれくらい美人だと、仲間外れにされてる感じはしない。 ぼっちには見えない。 かといって、孤高を気取ってるのでもないんだよな。 そんなふうにも見えない。 何ていうか、彼女のいる場所が世界最高ポジションとでもいえばいいのかな。世界最高峰。トップオブ ザ ワールド。誰も同じ高みには至れない。そんな感じなんだ。 人は、エベレストの頂上で群れなんか作れない。 でも、それで叩かれることもない――つーか、叩ける奴はいないだろ。 エベレストの頂上に立ってる人を。 4月に入ったばかりの頃、ちょっとした事件があった。 花見に賑わってた公園で病人が出たんだ。 それが、外国から観光に来たおばさんで、英語でも中国語でもハングルでもない言葉を喋ってて、周囲の人も、駆けつけた公園の管理人も、その人の言ってることが 全く理解できなかったんだよな。 安物の翻訳機を持ってる人もいたんだけど、なに言ってるのか以前、おばさんが 何語を喋ってるのかすら わからなかった。 おばさんは、どこが痛いんだか、よっぽど苦しいんだか、ぎゃーぎゃー大声をあげて、大暴れしだしてさ。 その時、ナターシャちゃんのママが来て、そのおばさんと話し始めたわけ。 おばさんは 日本の桜に憧れてトルコから来た観光客で、ギリシャ語が通じたらしい。 大声をあげて暴れてたのは、苦しいからじゃなく(それもあったが)、お金に余裕がないから 病院に連れていかれると困るっていうアピールだったんだと。 ナターシャちゃんのママは、おばさんの話を聞いて、おばさんの病気の原因も突きとめてくれた。 食べすぎの消化不良。 公園の管理人が、管理室から胃腸薬を持ってきて、しばらく横になってたら、落ち着いたみたいだった。 その騒ぎの時、公園の管理人とナターシャちゃんのママのやりとりを脇で聞いていて、知ったんだけどさ。 なんと、ナターシャちゃんのママは 光が丘病院に勤めてる医者なんだと。 医学部では、ギリシャ語やラテン語が わからないとならないらしくて、それでギリシャ語 ぺらぺらなんだそうだ(あとでネットで調べたら、ナターシャちゃんのママは東大医学部卒の医者だった)。 それだけでも、俺には十分 驚異的なことだったんだけど、驚異はそれだけじゃ 済まなかった。 トルコのおばさんの騒動を見てた他の花見客が、ナターシャちゃんのママを、 「ギリシャ語ができるなんてすごいですねー」 と褒めるのを聞いたナターシャちゃんが、 「アノネ、アノネ。ギリシャ語がわかるのは、マーマだけじゃないんダヨ。ナターシャのパパもギリシャ語わかるんダヨ。それから、ロシア語もフランス語もわかるんダヨ。デモ、パパは、英語が ちょっと苦手ナノ」 って、そこにいないパパの自慢を始めてくれたんだ。 ナターシャちゃん自身は 自慢してるつもりはなくて、ただ事実を報告してるだけのつもりだったんだろうけど、それは俺には十分に自慢だった。 ギリシャ語、ロシア語、フランス語がわかって、英語がちょっと苦手――って、どう聞いたってハイスペック自慢だ。 自慢以外の何物でもない。 ギリシャ語がわかるってことは、じゃあ、あのイケメンパパも医者なのかと思ったんだが、そうじゃなかった。 その後、公園で仕入れた情報によると、ナターシャちゃんのパパは スカイツリーの麓にあるバーでバーテンダーをしてるらしい。 夜の水商売。 普通なら、底辺っぽいイメージを抱くところだけど、ギリシャ語とロシア語とフランス語がわかって、英語が ちょっと苦手な美貌と迫力の持ち主を、どうすれば、底辺の下層民と思うことができる? 俺は 逆に、貴族、 殿上人の類と思うしかなかった。 ナターシャちゃんのパパとママは、半端じゃないエリート。異人種。選ばれたる者。 そういう人たちは、自分の人生を詰まらないものだとか 無価値だとか 思うことはないんだろう。 もちろん、生きてることが無意味だと考えて落ち込んだり、むしろ害悪なんじゃないかと考えて悩んだりすることもない。 そんなことに時間を費やすことなく、有意義で楽しく価値ある人生を生きるんだ。多分。 彼等は、その手の人生の悩みとは無縁の、ある意味、おめでたい人種だ。 そして、希少種でもある。 自分の価値を疑うことを知らない、幸福で幸運な人種。 滅多にいないから、存在自体に価値があるんだ。 だから――滅多に お目にかかれない価値ある稀少種だから、俺は 時々、スマホで彼等の写真や動画を隠し撮りしていた。 俺にとっては 別世界の生き物。 存在自体に意味と価値があり、見ることができたら、それだけで有難い人たち。 まさしく眼福。 彼等の写真や動画は、巨匠の名画や環境映像みたいなものだ。 隠し撮りした動画や写真を、俺は他にすることがない時(他にすることがないなら、勉強しろって話だが)部屋で ぼうっと眺めていた。 俺、学校に行かなくなったら、まじですることがなくなって(することがないなら勉強しろって、ほんと、自分でも思うけど)、暇潰しにアカウントを取って、近所の公園の紹介ってことで、以前から撮りためてた光が丘公園の光景の写真や動画をインスタに上げることを始めてたんだ。 春の桜、夏のケヤキ、秋の銀杏並木。 光が丘公園は自然が豊かで、子供に人気の遊具もたくさんあるから、遠出してくる人も 結構いる人気スポットだ。 もちろん、そんな ド素人の撮った写真や動画なんか、誰からも見向きもされなかったけどな。 だけど、ある時、ちょっとした手違いで、俺は、隠し撮りしてたナターシャちゃん一家の動画をインスタに上げてしまったんだ。 そして、その手違いに、しばらく気付かずにいた。 その日と翌日は 特段 何も起こらなかったんだけど、いったい何が起きたのか、翌々日から、物凄い勢いでフォロワーと『いいね』が増え始めた。 おまけに、 『綺麗綺麗すごく綺麗~』 『絵に描いたように綺麗な ご家族ですね』 『パパさんですか』 『映画かドラマのワンシーンみたいです』 『綺麗なご家族で羨ましいですー』 とか、何か勘違いしたコメントが 次から次についていくんだ。 『他の動画も見たいです』だの、『実物を見に行こうかなー』だの。 やばいと思った。 まずいと思った。 何より、生まれて初めて経験する、たくさんの人に関心を持たれる状況が恐くなって、俺は アカウントを即消しした。 アカウントを消して しばらくは、心臓がどきどきしてた。 綺麗な家族の動画が 限度を超えて話題になって、俺が無断でインスタにあげたことが ばれて、肖像権の侵害で訴えられたりしたら――。 そんなことになったら どうしようっていう、不安のどきどき。 そして、やりようによっては、俺なんかでも 人の注目を集めることができるんだっていう、興奮のどきどき。 まあ、結局は、初めての『いいね』もフォロワーも、俺の力で得たものじゃなかった事実を ちゃんと自覚して、ナターシャちゃんのパパママと俺の住む世界と人種の違いを思い知らされて、いたたまれない気持ちになって、終わり。 ベッドに仰向けに寝て、天井を眺めているうちに、不安のどきどきも 興奮のどきどきも、どこかに消えていった、 興奮のどきどきだけじゃなく、不安のどきどきまでが一緒に消えてしまうのは、“だらだら”が得意の俺らしい。 良くも悪くも、緊張感が続かないんだ、俺は。 そんなふうに だらだらしてるだけの俺と、存在してるだけで感動される人たち。 俺と、ナターシャちゃんのパパママとは、ゾウリムシとホモ・サピエンスくらい違う。 住む世界とレベルが違い過ぎるから、妬む気持ちは湧いてこないけど、何か悲しい――っていうか、情けないっていうか。 何がいちばん情けないって、住む世界が違うのは仕方ないにしても、それなら俺は俺なりに頑張ろうと思えないこと。 それが いちばん情けない。 頑張らなきゃならない。何かしなきゃならないと、思うことは思うんだ。 でも、思う側から、『俺にいったい何ができる?』っていう、投げやりな気持ちが湧いてきて――何かしなきゃって 思うだけで何もしない自分が、悲しいんだよな。 ただ悲しいだけ。 悲しくなって、でも、俺は何もしないんだ。 |