「な……浪平です。浪人の浪と平凡の平で、なみひら。友だちはみんな、ナミヘーって呼んでたけど」 ばか! 何が、『浪人の浪と平凡の平』だよ。 せめて『浪漫主義の浪と 平和の平』くらい言えないのか、俺は。 しょーもない自己紹介が、でも、ナターシャちゃんには喜ばれたようだった。 「ナミヘーお兄ちゃん!」 ナターシャちゃんが、嬉しそうに、俺をナミヘー呼ばわりし、 「なみひらさんだよ」 才色兼備ママが、ご機嫌なナターシャちゃんを たしなめる。 ナターシャちゃんが大きな目で俺を見上げ、じっと見詰めてきたのは、俺を『ナミヘー』と呼びたいから――らしい。 そんなに俺の名前を気に入ってくれたとは、光栄至極だ。 「ナミヘーでいいです。俺も、その方が嬉しい」 才色兼備ママは かなり困ってたみたいだけど、 「ナミヘーお兄ちゃん! ナミヘーお兄ちゃん!」 ナターシャちゃんは、すっかり 俺の名を『ナミヘーお兄ちゃん』で覚えてしまったようで、もはや修正は無理そうだった。 「すみません。ありがとうございます。浪平さんの お薦めの公園はどちらですか」 才色兼備ママが、頭を下げてから そう尋ねてきたのは、本気で俺の お薦め公園を知りたかったからじゃなく、娘はともかく、その親の自分は、俺を『ナミヘー』ではなく『なみひらさん』と呼ぶことを示したかっただけだったのかもしれない。 『なみひら』じゃなく『ナミヘー』で呼ばれたいっていうのは、嘘偽りのない本心なんだけどな。 さすがに、それは無理か。 ナターシャちゃんのママは、すぐに他人に馴れ馴れしく振舞えるタイプの人間じゃなさそうだ。 「大和市の ゆとりの森公園が、広々としていていいです。すごく大きな滑り台があるんです。幅が4メートルくらいあって、子供が10人同時に滑り降りることができる」 「すごいー!」 ナターシャちゃんが 顔を明るく輝かせて、歓声をあげる。 光が丘公園の滑り台は、割と普通だもんな。 「おっきな滑り台、パパとマーマとナターシャが一緒に滑るのもできる?」 「もちろん」 「パパとマーマとナターシャとナミヘーお兄ちゃんが一緒に滑るのもできる?」 「で……できるけど」 できるけど、それは畏れ多すぎる。 「わあ!」 尻込みしてる俺の気も知らず(知らなくて当然だが)、ナターシャちゃんは すっかりその気だった。 すっかり その気になって、俺の右の両手で掴み、俺を誘ってきた。 「ナミヘーお兄ちゃん、ナターシャと一緒に行こう!」 「ナターシャちゃん、浪平さんは忙しいと思うよ」 遠慮するママに『いや全然』とも言えなくて、俺は 完全に意味のない ごまかし笑いを作って、自分の顔に貼りつけた。 「いつか、行こうね」 才色兼備ママが そう言って、ナターシャちゃんの手を取る。 『いつか、行こう』 それは、大人が子供を ごまかす時に使う常套句だ。 『いつか、行こう』『いつか、買ってあげる』『いつか、遊んであげる』 ごまかし笑いで、ナターシャちゃんの望みを うやむやにしようとしていたのは俺の方なのに、俺は、 『“いつか”は永遠に来ないんだ』 と、冷ややかな気持ちで思ったんだ。 “いつか”なんて日は、永遠に来ない。 俺が、何かをする いつか。 俺が、何かを始める いつか。 俺が、何事かを成し遂げる いつか。 永遠に来ないんだ。そんな日は。 「いつかって、いつー?」 幼い子供の素朴で鋭い問い掛けに、ナターシャちゃんの才色兼備ママは、 「うーん、いつになるかなあ。すぐかもしれないし、ちょっと先になっちゃうかもしれない。うん、でも、大丈夫。ナターシャちゃんが忘れない限り、“いつか”は必ず来るからね」 と、すごく真剣な顔で答えた。 大きく跳ね上がった俺の心臓は、それから しばらく止まってた。 ナターシャちゃんのママに、胸中の呟きを盗み聞かれたような気がして。 もちろん、そんなわけないんだ。 そんなんじゃなかった。 ナターシャちゃんのママは、ナターシャちゃんに 優しく微笑みかけてた。 “いつか”は必ず来ると、本気で信じてるみたいに。 ナターシャちゃんのママに そう言われると、絶対に来ないはずの“いつか”が、いつか本当に来るような気がして――。 これが美人の持つ力なのか。 ナターシャちゃんのママに 真面目な顔で言われると、何でも真実に思えて――真実だと信じてしまいそうになる。 美人って すごいと、まじで思った。 そんなことがあって、それ以降、俺とナターシャちゃんと その保護者は、公園で会うと挨拶を交わすようになったんだ。 俺とナターシャちゃんと その保護者。 “その保護者”が、ナターシャちゃんのママ――瞬先生の時はいいんだけどさ。 「ナミヘーお兄ちゃーん」 ナターシャちゃんがパパと一緒の時に声を掛けられるのは、滅茶苦茶 心臓に悪い。 本気で恐いんだ。 怒鳴りつけられるわけでも、殴り倒されるわけでも、噛みつかれるわけでもないんだけど、ナターシャちゃんのパパが ただ黙って そこにいるだけで、俺は 地獄の閻魔大王の前に引き出された罪人の気分になる。 同性の 桁違いの美貌ってやつは、何て言うか、とにかく迫力がある。圧巻。そして、恐い。 ナターシャちゃんのパパの前で、『こんなイケメンになりたい』なんてこと、俺は一瞬たりとも思わなかった。 イケメンもイケメン過ぎると無駄な資産――むしろ負債――みたいな気がして。 自分が あんなイケメンだったら、きっと俺は そのイケメン振りを持て余すだけだ。 まあ、でも、季節は のんびりした春だし、だらだら適当にしてたんだ。 俺自身は 子供を連れてるわけじゃなかったから、ナターシャちゃん一家と そんなに親密になることもなかった。 瞬先生が時々、興味があるようならって言って、玩具や遊具のデザイン展や 公園や幼稚園のデザインの展示会、芸術祭の招待券とかを持ってきてくれる他は、一緒に公園の美化に努めるだけの関係。 会えば会釈して、天気の話をして、ゴミの話をして――俺は そもそも、瞬先生やナターシャちゃんの気を引けるような話題も持っていないからな。 未使用の紙コップ500個とか、男性用カツラとか、たまに とんでもないゴミに遭遇した時に、それを報告するだけ。 それだけの関係だったんだ。 |