「笑顔で おめでとうって言えたらよかったんだけどね……」 沖に威容を誇って見せていたエティオピアの大船団は消え、そこには 今はただ ひたすら青い空が広がっているばかりである。 姉と慕ったエスメラルダも遠い国に行ってしまった。 海上に船影があった時は、胸がざわつき ときめいていたが、船が消えた今、瞬の胸には ぽっかりと底のない穴が開いたようだった。 アテナの聖闘士になる資格を得て、聖衣も授けられた。 聖域のアテナと教皇に その報告に行かなければならないのだが、その気力も湧いてこない。 聖闘士になったら退治しようと思っていたケートスも、別の人に先に対峙されてしまった。 浜辺で ぼんやりと沖を眺めていることしかできないのであれば、そんな腑抜けは 聖闘士の資格を返上すべきなのかもしれない。 そんなことを考えながら、浜辺に座り込んで ぼんやり沖を眺めていた瞬の上に、 「なぜ 笑顔で おめでとうと言えないんだ?」 と問う声が降ってきた。 驚いた瞬が顔を上げると、そこには、この場にいるはずのない人が立っていた。 エスメラルダと共に、故国に帰ったはずのエティオピア国王が。 今日は舟でやってきたらしく、衣服は濡れていない。 「え? え? なんで? エスメラルダさんは? どうして、あなたが ここに――」 瞬の混乱は、もちろん、ここにいるはずのない人が ここにいるから。 ここに いてはならない人が ここにいるから。 そして、もう二度と会えないと思っていた人に再会できたことを喜ぶ気持ちと、その喜びは 喜んではならない喜びだと思う気持ちの交錯のせいだった。 この人は エスメラルダさんと共に在るべき人なのだという思いと、この人が僕の側にいてくれたら どんなにいいだろうという思いの交錯――。 混乱して、その場から動けずにいる瞬に、彼は、 「『なんで』も何も、おまえに会いたいから、会いに来ただけだ」 という、理由として これ以上の理由はない理由を手渡してきた。 彼は いったい どういうつもりで そんなことを言っているのか――。 至極 妥当で、普通で、尤もな理由を 喜んで受け取ることができず戸惑っている瞬に、彼は とんでもない告白を かましてくれたのである。 「とにかく、まず最初に、おまえの誤解を解いておく。俺はエティオピア国王じゃない」 「は?」 それは本当に とんでもない告白だった。 「俺の名は、氷河。生まれはヒュペルボレイオス。聖域の聖闘士だ。エティオピア国王で アテナの聖闘士でもある一輝がデスクィーン島に行くというので、船に乗せてもらっただけ。俺の目的地はデスクィーン島ではなく、アンドロメダ島。この島で、何か 探し物が見つかるから行ってみろと、アテナの指示を受けてのことだ。俺が 一輝の振りをしてエスメラルダ女王との対面に臨んだのは、本当は あのあと、一輝が下っ端兵士の振りをしてエスメラルダ姫に接触する演出が用意されていたからだ」 「え?」 これまでの混乱とは 全く趣を異にする混乱に、瞬は襲われていた。 瞬がエティオピア国王と思っていた人が、実はそうではなかった――のだ。 これが混乱せずにいられることだろうか。 「一輝は、国を出発する時からエスメラルダ姫に求婚する気満々だった。そこに、おまえが エスメラルダ姫としてやってきた。俺は、自分が好きになった相手が一輝の思い人だと知って唖然呆然愕然だ。一輝の数年越しの思い人に、俺が横恋慕するわけにはいかないからな。あの一輝が女に惚れるなんて、この先 二度あるかどうかもわからん奇跡だ」 「……」 瞬は、エティオピアの国王が どんな人なのかを ほとんど知らなかった。 エスメラルダから聞いた眠り草の話では、それほど奇異な印象は抱かなかったのであるが、それは彼に恋したエスメラルダが 恋する少女の視点で語ったこと。実は エティオピア国王は 相当の堅物――なのだろうか。 「対面の場に護衛兵の振りをして立ち会っていた一輝は――奴は、あの対面の場で、おまえがエスメラルダ姫でないことに 一目で気付いたらしい。身代わりを立てられるほど、自分がエスメラルダ姫に怖れられていることにショックを受けて 落ち込んで、おまえがエスメラルダ姫でないことを、ずっと俺に教えてくれなかったんだ、あの野郎!」 「……」 瞬がエスメラルダの身代わりとして エティオピア国王との対面に臨んだことで、偽物のエティオピア国王 氷河と、本物のエティオピア国王 一輝が傷心したことはわかった。 しかし、瞬も――偽物のエティオピア国王のせいで、氷河がエスメラルダに好意を抱いているのだと誤解し、自分の恋を諦めたのだ。 「僕だって、エティオピア国王が――氷河がエスメラルダさんを好きなんだと思って、すごく つらかったんだから……!」 瞳に涙が滲んでくる。 自分に氷河を責める権利も資格もないことはわかっていたのだが、それでも 瞬は 氷河を責めた。 責めずにいられなかったのだ。 何も言わずにいたら、小さな子供のように大泣きしてしまいそうだったから。 「そうか。よかった」 瞬が つらかったことを『よかった』と言う氷河を、瞬は更に重ねて責めるべきだったのかもしれない。 だが、責めることはできなかった。 氷河とエスメラルダの恋を心から祝福できる瞬は、氷河にとって“よくない”瞬なのだ。 アンドロメダ島の白い砂が 海の中へと続く遠浅の浜辺。 すべての混乱から解放された瞬が その場に立ち上がる前に、瞬は 氷河に抱き倒されていた。 |