日本国の国立国会図書館東京本館は、栄光の千代田区永田町1丁目10番1号にある。
しかし、その分館である国際子供図書館の所在地は、台東区上野公園12-49。つまり、都心三区の外にある。
だから、氷河は誤解したのだった。
ネットで、子供図書館の『世界の絵本ギャラリー ヴィクトリア朝の子供の絵本展』の宣伝ポスターを見掛けたナターシャに、綺麗な外国の絵本を見に行きたいと言われた時、子供図書館は千代田区にある施設ではないのだから、練馬区民にも利用できる施設なのだ――と。

千代田区の居住者人口は僅か4万。そのうち、子供の数は おそらく 2000にも満たないだろう。
そんなところに児童図書館を作っても、ほとんど利用されることはない。
多くの子供たちに来場してほしいから、その施設は都心三区の外に建てられたのだ。
そう決めつけて、氷河は、ナターシャを伴い、台東区の国際子供図書館に向かったのである。
それが 甘かった。


春の日曜の昼下がり。
氷河は、台東区には、千代田区ほど 緊張も気後れもせずに 足を踏み入れることができた。
何といっても、『都心三区ではない』というのは大きい。
都心三区外では、区民カードを提示しなくても、大抵の場所への立ち入りが自由。
駅を出る際にも、バスを降りる際にも、タクシーを降りる際にも区民カードの提示を求められる都心三区とは、わけが違うのだ。

国立国会図書館の分館である国際子供図書館は、旧帝国図書館庁舎だった建物を改修して転用した施設らしい。
入り口脇の石碑に そういう説明が記してあった。
ルネサンス様式を取り入れた明治期洋風建築の代表作の一つで、その外観は まさにヨーロッパの貴族の館そのもの。
格調高く 堂々とした佇まいは、子供のための施設だというのに、どこか威圧的でさえあった。

とはいえ、どんなに立派な建物でも、建っている場所は台東区。
千代田区でも中央区でも港区でもない台東区。
浅草寺と同じ、台東区なのだ。
『子供図書館、恐るるに足らず』と自分に言い聞かせ、ナターシャの手を引いて、子供図書館の正面玄関に足を一歩 踏み入れた氷河は、だが、実に残念なことに、次の二歩目を踏み出すことができなかった。
二歩目に行く前に、受付の女性に呼びとめられてしまったのだ。
「区民カードをご提示ください。この国際子供図書館は、千代田区、港区、中央区の住人と、事前申請して許可を得た台東区民しか 入館できないことになっています」
と。

受付の女性の声が高飛車なのは、氷河が図書館に入る際、自発的に区民カードの提示を行なわなかったからだったろう。
大抵の都心三区民は、公共施設に入場する際、まず受付で区民カードを提示する。
そうすれば、混んでいないエレベーターを優先的に使える、行列に並ばなくても各種サービスを受けられる等、その施設における三区民特別待遇の案内を受けることができるから。
そのため、三区民は、多くの公共施設やホテル、テーマパーク等を訪れた際には、提示を求められなくても、自発的に区民カードを提示するのが習慣になっているのだ(と、氷河は噂で聞いていた)。

受付の女性の声が やけに刺々しく不機嫌そうなのは、もしかしたら、彼女が 現在の職場環境に不満を抱いているからなのかもしれない。
誰もが羨む千代田区の国会図書館で働くことができると思っていたのに、台東区の子供図書館に配属されて、彼女は 不満たらたら不平だらだらなのだ(おそらく)。

人間が遺伝的要素と環境的要素で作られているのは事実だろう。
容姿、体格等、遺伝によって決定される各種要素に関して、個々人に責任を負わせることはできないから、遺伝的要素で人を差別することは間違っている――という考えには、氷河も賛同する。
だが、だからといって、『環境的要素で人を差別することは間違いではない』という考えは、それこそ 間違っているだろう。
氷河は、居住区で人を差別することを、実に馬鹿げた行為だと思っていた。

とはいっても、これまで 氷河は 居住区差別問題の解消を真剣に考えたことは、ほとんどなかったのである。
そもそも 氷河は、千代田区になど、行く用も必要もない。
だから 氷河は、居住区差別に関して、全く賛同はしないが、積極的に反対もしない――というスタンスでいた。
現に そうなのだから、受け入れるだけ。
それで飢えて死ぬわけでもない。
氷河は、練馬区民である自分を卑下したこともなかった。
氷河は しかし、練馬区民だという理由で ナターシャが差別を受けることは、何としても 許し難かったのである。

「パパ……。ナターシャは、絵本ギャラリー、見れないの?」
ナターシャが心配そうな目で氷河を見上げ、尋ねてくる。
ナターシャは、絵本ギャラリーのポスターにあった、19世紀ヴィクトリア朝英国の少女たちと妖精と花の絵本を見るのを楽しみにしていたのだ。
少女と妖精は、素敵な絵本の中で どんな お話を繰り広げているのだろうと、ナターシャは想像の翼を広げていた。
シンデレラ姫や白雪姫。お姫様の出てくる絵本も楽しいが、お姫様ではない、ごく普通の家の少女が 可愛らしいエプロンドレスを着て、咲き乱れる花の中、妖精たちと戯れている図は、お姫様ではないナターシャの日常に夢を運んできた。
子供図書館に行ってみようと、パパに言われた その時から ずっと、ナターシャは 今日の来る日をわくわくしながら待っていたのだ。

『エプロンドレスの女の子たちと妖精と花の素敵な絵本を、ナターシャは 練馬区民だから見られないんだ』と、氷河はナターシャに言いたくなかった。
だが、その残酷な事実を知らせずに、ナターシャに 素敵な絵本の閲覧を諦めさせる方法があるだろうか。
氷河は、その場で、無言無表情で悩み始めたのである。

そこに、ふいに。
「すみません。入館に区民カードの提示が求められることを知らせていなかったので、彼、カードを持ってこなかったみたいです。これで、お願いします。僕の家族です」
氷河の脇から、受付の女性に、すっとカードを差し出した人がいた。
優しい声、繊細な白い指。
氷河が驚いて 視線を巡らすと、そこにいたのは、氷河より少し背が低く やわらかい褐色の髪の持ち主。

「あ?」
迂闊な(余計な)ことは言わない方がいいと察して、意味のある言葉を口にせずにいた氷河の顔を、その人が見上げてくる。
その人は、奇跡のように美しく澄んだ瞳の、途轍もない美人――遺伝的要素で人を差別するつもりはないが、とにかく 素晴らしい美人――だった。
シャープで端正な、目の覚めるような美人ではない。
表情が優しく、印象が やわらかいので、見詰めていると温かい気持ちになる、不思議なタイプの美人だった。

その美人が提示したカードは、全面黒色に金色の帯入り。
氷河は噂でしか聞いたことがなかったが、それは 間違いなく、普通の千代田区民カード(=ブラックカード)の上を行くパラジウムカード。
発行枚数3万弱の千代田区民カードの中でも 超特別待遇の人間にのみ配布され、その数 100枚足らずと言われる、超稀少なカードだった。
黒地に金色の帯がついたパラジウムカードは、噂によると、千代田区が『千代田区に住んでください』と招聘して千代田区民になってもらった貴人にのみ配られるものらしい。
本当に そんなカードが存在するのかと疑う人もいるほどの、まさに 幻のカードである。
氷河も、見るのは これが初めてだった。

「こ……これは失礼いたしました。千代田区の方でしたか。しかも、特待区民。こちらのお二方が ご家族……なのですか?」
パラジウムカードを捧げ持ち、恐れおののくところを見ると、態度が横柄だった割に、受付女性は 三区以外――せいぜい渋谷区や新宿区の住人なのだろう。
氷河とナターシャに向けられる彼女の目が疑わしげなのは、カード提示が習慣になっているはずの千代田区民にしては、氷河が区民カードを出す素振りも見せなかったから――のようだった。

氷河は、無言でいるのも、不愛想でいるのも、無表情でいるのも得意だが、嘘をつくのはヘタである。
疑惑の目で見られることは平気だが、自分たちは 千代田区美人の家族だと嘘をつくことはできない。
『純真な子供(ナターシャ)の前で 嘘をつくわけにはいかない』と思うからではなく(もちろん、そう思うが、そう思うからではなく)、氷河は、嘘をつきたくないから 嘘をつかない――のだ。
対応に困り、無言で突っ立っているだけの氷河に代わって、機転を利かせてくれたのはナターシャだった。

「マーマ!」
パパと 繋いでいない方の手で、ナターシャが千代田区美人の手を取る。
その手を、ナターシャは嬉しそうに しっかりと握りしめた。
「マーマ! ナターシャ、マーマが来てくれるのを待ってたんダヨ!」
名前を知らない人を、仮に『マーマ』と呼んでいるだけで、ナターシャは嘘はついていない。
実際、ナターシャは、自分とパパを窮地から救い出してくれる親切な人を心待ちにしていたのだ。

「ナターシャちゃん。待たせて、ごめんね」
そんなナターシャに、千代田区美人が 優しく微笑みかける。
さすがの高飛車受付職員も、美しくも心和む 二人の様子に、それ以上 疑念を抱き続けることはできなかったようだった。

「失礼いたしました。正面ドアから お入りください。右手が子供の部屋、その奥が本のミュージアムになっております」
「ワーイ、ヤッター!」
エプロンドレスの少女と妖精の絵本を見ることができるなら、厳しい受付のお姉さんのことは すぐに忘れる。
そんなことを忘れずに根に持って、嬉しい気持ちを殺いでしまうのはナンセンス。
ナターシャは、パパと繋いでいた手を離さず、マーマと繋いだ手も離さず、心と足を弾ませながら、三人一緒に子供図書館の中に入っていったのだった。






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