「母さん。乙女座の黄金聖闘士が 見舞いに来てくださった」 自分は寝台で また うとうとと まどろんでいたのだろうか? 眠っていたのか、目覚めていたのか、その判断もできなくなりつつあったナターシャは、だが、息子の言葉で はっきりと覚醒した。 息子は、今、何と言ったか。 乙女座の黄金聖闘士が見舞いに来たと言わなかったか。 そんなことは あり得ないのに。 「……乙女座の黄金位は、もう70年以上空位のまま。あの人以外、乙女座の黄金聖闘士になれる人はいないから――」 「ナターシャちゃん」 懐かしい声が、ナターシャの上から 一気に70年の時間を消し去った。 「……マーマ?」 まもなく80歳になろうという老女が、20歳前後の若々しい青年(?)をマーマを呼ぶ。 聖衣は まとっていないが、一般人にも容易に感じ取れるほど強大で優しい小宇宙。 男性的ではないが、だから女性的かと言われると、首を横に振るしかない清楚清廉な佇まい。 若く美しく強い その人は、ナターシャの寝台の枕元に腰を下ろし、自分をマーマと呼んだ老女の頬に、その白く繊細な指と手で触れた。 死に瀕していた女性の頬に 僅かに血の気が戻り、それが ほんのりと 薄桃色に上気する。 「たった今、帰ってきたの。遅すぎた……なんてことはないよね?」 囁くような声で尋ねた乙女座の黄金聖闘士に、ナターシャより先に反応を示したのは、彼女の息子だった。 「も……申し訳ありません。母は、少し 意識が乱れていて……」 どんなに美しくても、乙女座の黄金聖闘士は男性のはず。 “マーマ”ではない。 そう考えての謝罪だったろうが、それは必要のない謝罪だった。 「いいえ。ナターシャちゃんは 僕のことをマーマと呼んでいた。混乱などしていない。ナターシャちゃんの意識は ちゃんとしています」 「それは……」 聖域の黄金聖闘士というだけでも、雲の上の存在である。 その上、命を賭して世界を救った英雄の中の英雄、伝説中の伝説――を、しかも男性を『マーマ』とは。 己れの母の恐れ知らずな振舞いに、分別ある五十男は 声を失うばかりだった。 「マーマ……こんな最期に会えるなんて……。マーマは、いつも綺麗。マーマ、ごめんなさい、ナターシャは悪い子だったの……」 ナターシャは“ちゃんとして”いる。 ナターシャは、ちゃんと、乙女座の黄金聖闘士 瞬を 自分のマーマと認め、自分が乙女座の黄金聖闘士を『マーマ』と呼んでいた頃の意識を、今、この死の床に呼び戻しているようだった。 「ナターシャちゃんは いつも とってもいい子だったよ」 瞬の言葉に、ナターシャが 涙で『否』と答える。 「私はいつもマーマが羨ましかった。パパはいつも、私のことをいちばんに守ってくれた。自分の命も時間も犠牲にして、私を守り庇ってくれた。でも、それは、私が弱い存在だったからで、私を信じていたからじゃない」 「氷河は ナターシャちゃんを愛していたんだよ。自分の命より愛していた」 「マーマはいつもパパと一緒だった。パパと一緒に戦い、パパと一緒に傷付き――パパと一緒に生きて、きっとパパと一緒に死んでいく。私はいつも、そんなマーマが羨ましかった」 ナターシャの心と意識は 70年前の子供の頃のそれに戻っているのに、彼女の分別と判断力は大人のそれ。 ナターシャは、死の前に、自分の中にある罪を打ち明けて、マーマの許しを得ようとしているようだった。 瞬にとって(おそらく氷河にとっても)、それは罪ではなかったし、ゆえに許される必要もないことだったのだが。 「人には、それぞれの立ち位置、生きる場所がある。僕は氷河と共に戦う。ナターシャちゃんは、氷河に愛され、氷河に 愛されることで 氷河に力を与える存在だったんだよ。ナターシャちゃんの存在が、どんなに氷河を強くし、幾度 氷河の命を救ったか」 「わたし……が……?」 「そうだよ。僕は、氷河と共に戦う仲間だったけど、氷河に無条件に力を与える者にはなれなかった。氷河にとってのそれは、ナターシャちゃんであり、氷河のマーマだった」 それは、誇りに思っていいことであり、罪などではない。 それを罪だというのなら、無条件で氷河に力を与えられる人たちを羨んでいた乙女座の黄金聖闘士も罪人だということになってしまう。 そうではないだろう。 ナターシャは――瞬も――、自らに与えられた場所で 必死に生きただけのことなのだ。 瞬の言葉は“許し”ではなかったが、ナターシャの罪の意識を和らげるのに 少しは役だったようだった。 ナターシャが別の告解を始める。 「パパたちが命がけで 私たちが生きてる世界を守ってくれたから、私は生きていられる。パパは英雄、マーマたちは英雄。みんなが、パパたちは偉かったって、私を慰めてくれた。でも、きっと、生きて帰ってくるって約束したのに、パパは その約束を守ってくれなかった。私は、嘘つきって――パパを嘘つきって思った」 「それは きっと、氷河が帰ってこない悲しみや、氷河が側にいてくれない寂しさを紛らすために、そう思うことが、その時のナターシャちゃんには必要だったんだよ。ナターシャちゃんが生きていくために」 「……そうだったのかもしれない」 だが 当時は、自分を守るために命をかけてくれた人を 嘘つきと責めずにいられない自分を、悪魔のように冷酷な心の持ち主だと思ったのだ。 そう思うのに、帰ってきてくれないパパを責めることをやめられない。 そんな時だった。 『でも、誰も、君のパパが死んだところを見ていないんだろう? 君のパパは 今も君との約束を守ろうとしているかもしれない。君のパパを 嘘つきと決めつけたら、君こそがパパとの約束を守れなかったことになるんじゃないかな』 と言ってくれる人に出会ったのは。 その人に出会って、ナターシャは、自分が本当に求めているものが何であったのかを知ったのだ。 それは、希望。 パパが生きているかもしれないという希望を持ち続けていられること。 ナターシャは、その人に恋をして、結ばれ、子を産み、孫に恵まれた。 希望をくれた その人と幸せな一生を過ごすことができた。 「そう。よかった。ナターシャちゃんの幸せが、氷河の いちばんの願いだよ。氷河の願いは 叶ったんだね」 ナターシャに そう告げる瞬は嬉しそうで――我が子の幸せを確認できた母親のように幸せそうで、そんなマーマの微笑を見上げるナターシャは、自分が幼い少女に戻ってしまったような――いつのまにか、そんな気持ちになってしまっていた。 「死ねば パパに会えると思ってたのに……。マーマが生きてるってことは、パパも生きてるの? 私が死にかけてる時に、パパは私との約束を守ろうとしてるの……?」 だが、だとしたら――パパも生きているのだとしたら、なぜ 今 ここにマーマと共にパパがいないのか。 それが不思議で――それが恐くて――ナターシャは、恐る恐るマーマに尋ねた。 瞬が、困ったような溜め息を洩らす。 「あのね、ナターシャちゃん。僕たちは、地球にエネルギーを分け与えられる 異次元の地球を探す旅に出て、見付け、その星のエネルギーを僕たちの地球に転移転送し続けて、エネルギー真空地帯に引き込まれたりもしたけど――僕たちは、それらのことを僕たちの主観で 1年もかけずに成し遂げた――そのつもりだったんだ」 そうして帰ってきたら、こちらでは70年の時間が過ぎていた――のだ。 「僕たちは この1年間のほとんどを 光速で動いていたから、時間の流れ方が相対性に違ってしまった結果、こういうことになってしまったのだと思うけど……」 瞬の言う“こういうこと”とは、ナターシャだけが歳をとったことか、それとも 世界を救うために旅立った黄金聖闘士たちだけが歳をとっていないことなのか。 瞬に溜め息をつかせたのは、どうやら後者の事象のようだった。 「ナターシャちゃんの望み通りにするよ。ナターシャちゃんは 氷河に会いたい? 氷河は僕同様、地球を救うために異次元への門――黒核に飛び込んだ時のまま、歳をとっていないんだ。ナターシャちゃんを愛してる気持ちには変わりはないけど、大人にはなれていない」 やはりナターシャのパパ――水瓶座の黄金聖闘士は生きているらしい。 乙女座の黄金聖闘士同様、若いままで生きているらしい。 ならば、なぜ、彼は すぐに彼の娘に会いに来てくれないのだろう? その答えが、乙女座の黄金聖闘士から与えられる。 「氷河は、ナターシャちゃんの子供どころか 孫くらいの歳なの。ナターシャちゃんは 年下のパパにがっかりするんじゃないかと不安がって、氷河は ナターシャちゃんのところに来れずにいるんだよ」 ひどい怪我を負ってしまったから。 あるいは、原因や感染経路のわからない病に侵されているから。 パパが すぐに ここに駆けつけてきてくれない理由を、ナターシャは あれこれ考えて 心配していたのに。 パパが瀕死の娘の許に駆けつけてこられない理由が、そんなことだとは。 ナターシャは笑った。 笑わずにいられなくて、つい 笑ってしまった。 「パパったら……。私が 老いた姿をパパに見せたくないんじゃないかって 考えないところが、パパらしい」 瞬も笑った。 笑わずにいられなくて、瞬も つい。 「それはそうだよ。ナターシャちゃんは いつだって、氷河の可愛いナターシャちゃんだもの」 「会いたい」 「うん」 |