その日もテラス席。 カップは陶器。 日本からの焼き物は、フランス人には 薄くて繊細な磁器の方が 陶器よりも好まれているのだが、厚みがあって冷めにくいという点では 陶器の方に軍配が上がる。 焼き物のコレクターたちには、実用性よりも美しさの方が重要ということなのだろう(そんなコレクターたちも、自分がカフェを飲む時には 陶器のカップを使うに違いない)。 美しく繊細な絵が描かれていれば、案外 漆器は 受けるかもしれない。 そう考えて、瞬は カフェクレームの入っているカップを爪で弾いた。 陶器特有の鈍く低い音がする。 その音の響きが完全に消える前に。 「お姉ちゃん。パパの絵のモデルになってください」 「え?」 陶器のカップが喋った。 と、瞬が思ったのは、自分の周囲に人の姿が見えなかったからである。 もちろん、そんなことがあるはずがないのだが。 声は 小さな子供の声――おそらく女の子の声。 それはカップの声ではなく、カップが置かれているテーブルの下から聞こえてきた。 正確には、声の主は テーブルの下ではなく横に立っていたのだが、頭がテーブルに届いていなかったため、テーブルの下からの声に聞こえたのである。 歳は、3、4歳くらいだろうか。 大きな瞳と長い髪。 側に大人はついておらず、一人きりである。 「アノネ。ナターシャのパパは、とっても素敵な絵を描く絵描きさんナノ。それで、パパには綺麗なモデルさんが必要ナノ」 少女は、可愛らしい服を着ていた。 足首までのドレス、生地はサテン、チュールの重ね。 さすがモードの都の住人は、子供までお洒落だと、瞬は感心したのだが。 お洒落で 仕立ても上等な服なのに、その服は全く手入れが行き届いていなかった。 スカートは しわくちゃ、襟ぐりは よれよれ、胸元には シミもある。 洋服だけでなく、髪のリボンも半ば ほどけていて、その少女は 到底 身近に彼女を愛し気遣う大人がついているとは思えない様子をしていたのである。 その少女を見て、最初に 瞬の脳裏に浮かんだのは、“売れない絵を描く画家の娘”というフレーズだった。 パリには、売れない芸術家が大勢いる――それこそ、掃いて捨てるほどいる。 自分が描いた絵を持ち歩いて、会う人ごとに 買ってくれないかと頼む貧乏画家も少なくない。 瞬も幾人もの画家に 購入を打診されたことがあった。 だが、モデルになってくれと依頼されるのは初めて――全く 初めてではないが、画家当人ではなく、画家の関係者、しかも こんな小さな女の子に依頼されるのは、これが初めてのことだった。 これは 新手のパトロン探しの技なのかもしれないと、瞬は疑ったのである。 「君のパパは どこで絵を描いているの? お家で? お家は この近く?」 「これまでは、おうちのアトリエで描いてたけど、今は――」 「今は?」 問われた少女は しょんぼりと肩を落として、瞼を伏せた。 部屋代を払えなくて、“おうち”を追い出され、今は野宿をしている――瞬の脳裏では、そんな最悪のストーリーが編まれ始めた。 「お話を聞きたいから、カフェに付き合ってくれる? 好きなのを頼んでいいよ」 と瞬が言うと、少女は 嬉しそうに頷いて、 「ショコラ・ヴィエノワとクイニーアマン! ショコラ・ヴィエノワはクリーム山盛りダヨ!」 テラス席と屋内の間の壁前にいたギャルソン(おじさん)に大きな声でオーダーした。 追加で、ギャルソン(おじさん)に、 「テーブルが高すぎるから、クッションを2つ貸してネ」 と言うのも忘れない。 小さな女の子なのに、カフェでのオーダーに慣れている。 これは つまり、今は住む家もなく野宿をしているのだとしても、気軽にカフェでケーキや飲み物を飲食できていた時期が彼女にはあった――ということだろう。 汚れた上等の子供服という彼女の様子にも、それで説明がつく。 瞬のその推察は、どうやら正鵠を射ていたようだった。 少女の名は ナターシャ。 彼女のパパは、油絵画家ではなく、モード服のイラストレーター。 洋服のデザインもするが、既にある洋服を着用した女性の絵を描くことを、主な生業としていたのだそうだった。 「“ら・もーど・いりゅすとれ”や“もーど・でゅ・ぷち・じゅるなる”や“る・ふぉれ”とかに、たくさん綺麗なドレスの絵を描いてたんダヨ。本屋さんに並んでる もーど雑誌の表紙が全部 パパの絵だったこともある。絵の注文が ひっきりなしにあって、イギリスやアメリカからだって、注文がきた。パパの原画は1枚、200フランもするんダヨ!」 「1枚200フラン? すごいね」 パリの労働者――家具職人や印刷工の年収が1000フラン前後である。 1枚200フランのモードイラストを 月に10枚描けば、パリの平均的労働者の1年分の賃金を得ることができたのなら、ナターシャの父親は 間違いなく売れっ子 絵描き(芸術家ではないにしても)だった。 モード誌のモード画描き。 ナターシャが お洒落で質のいい洋服を着ているのも道理である。 仕事は順風満帆、娘は元気で可愛らしい。 おそらく、以前は ナターシャの洋服も手入れが行き届き、綺麗で清潔だったに違いない。 そんな幸福な家庭が、不幸に見舞われた。 「パパが描く絵のモデルは、いつもパパのマーマだった。マーマがいれば、パパは いくらでも素敵な絵を描けたノ。でも、マーマが死んで、パパは絵を描けなくなっちゃったノ……」 美しく幸福な家庭は、一人の女性の死で瓦解してしまったのだ。 「パパが描くマーマの絵は、どれも本当に素敵ナノ。みんながマーマみたいに綺麗になりたくて、パパが描いたドレスを欲しがった。うぉると社も、ぱんがのメゾンも、じゃっく・どぅーせのお店も、ぽーる・ぽわれのお店も、パパの絵があったから、人気のお店になったんダヨ。ホントダヨ」 ナターシャの口から、パリ・モードを代表する有名オートクチュールの名が ぽんぽんと出てくるのは、彼女が その名を日常的に聞いていたからだろう。 話半分だとしても、ナターシャの父親の仕事の影響力は相当のものである。 「ナターシャちゃんのパパは、すごく立派なお仕事をしていたんだね」 モードの都パリ。 ファッションには あまり興味がないので詳しくは知らないが、美しく衛生的に生まれ変わったパリの あちこちに、幾人ものデザイナーがオートクチュールのメゾンを構え、美とセンスを競い合っていることは、瞬も知っている。 それらの高級仕立て服の広告宣伝を担っているのが、ラ・モード・イリュストレやモード・デュ・プチ・ジュルナル、ル・フォレ等のモード誌。 各デザイナーの最新流行のドレスを着た女性の絵を載せたモード誌があるから、パリから遠く離れたトゥールーズやニース、イギリスやアメリカの富豪夫人たちからも、パリのメゾンに ドレスや宝飾品の注文が入るのだ。 それほど人気のモード画描きなら、原画1枚200フランは、考えようによっては安すぎるくらいなのかもしれなかった。 「でも、マーマが死んじゃって、パパは やる気がなくなっちゃったノ。絵を描く代わりに、毎日 お酒を飲んデル。だから、ナターシャ、マーマとおんなじくらい綺麗で、マーマの代わりにパパの絵のモデルができる人を探してたノ。このままじゃ、パパは絵の描き方を忘れちゃうヨ。パパは、ナターシャと遊ぶ方法も忘れちゃったみたい。ナターシャのパパが 何もできないパパになっちゃう……」 ナターシャの父は、彼の絵のモデルを心から愛していたのだろう。 心から愛する人を失った男の悲劇。 瞬は、彼への同情を禁じ得なかった。 だが、自身の悲しみに浸り続け、幼い子供の世話を ないがしろにすることは、子供の親として無責任すぎる。 亡くなった人も、そんな状況を喜んでいるはずがない。 絵のモデルは無理だが――瞬は、ナターシャの身辺をどうにかしてやりたかった。 |