仕事をしなくなって、酒浸り。
そのため 部屋代を払えなくなり、大家に部屋を追い出されてしまった――という、ナターシャの父親に関する瞬の予想は、半分 当たり、半分 外れていた。
ナターシャは、瞬を自分の父の許に案内すると言って、サンジェルマン・デ・プレのある6区の隣りの7区に移動、アンバリッド方面に向かって歩き出した。
そして、アンバリッドの手前、フォーブール・サンジェルマン地区――又の名を、貴族街――の、それこそ貴族の館としか言いようのない建物の前で歩みを止める。
これはどう見ても、賃貸物件ではなかった。

瞬は、城戸財閥が用意した16区のアパートメント――パリ万博に合わせて建てられた 新しく快適なアパートメントに住んでいるのだが、その最新型のアパートを10棟並べたより 更に広い邸宅。
それが、ナターシャとパパの“おうち”だった。
ナターシャのパパが売れっ子画家(だった)というのも、紛う方なき事実なのだろう。
そして、彼は、もしかすると 貴族なのだ。
革命以前旧体制時代からの貴族なのか、ナポレオン以後の新興貴族なのかは定かではないが。

「パパ、お客様ダヨ!」
いかにも貴族の館――豪奢で大きな館は、手入れが全く行き届いていなかった。
ファサードから入ったエントランスホールの空気が ひどく淀んでいる。埃っぽい。
掃除が行き届いていないというより、人の出入りがないので空気が動いていないからのようだった。
そのホールから左手に伸びる廊下を、ナターシャが駆け出す。
その突き当たり――つまり 館の東の端の部屋に、彼女は勢いよく飛び込んでいった。

少し遅れて、瞬も その部屋に入る。
部屋は広い。
調度も立派。
その部屋は、埃ではなく 酒の匂いがした。
「パパ。お客様だから、起きて」
ナターシャが駆け寄ったのは、部屋の中央にある背もたれつきの長椅子。
庶民の寝台より はるかに寝心地の良さそうな その長椅子にクッションを積んで、ナターシャのパパは優雅に午睡をしていたようだった。

「マーマがいなくなってから、パパはお酒を飲んでばかりいるの……。パパ、お客様に ご挨拶シテ」
ナターシャの声で 彼は目覚めた――ようだった。
娘への愛まで忘れてしまったわけではないのだろう。
彼は、ナターシャがそこにいるのを認めると、腕をのばして彼女の頭を撫でた。
「ナターシャ、ゴアイサツは明日にしよう」
彼はまだ半分眠っている。
「明日じゃ駄目。パパ、今、ご挨拶シテ」

ナターシャが小さな手でパパを揺り起こそうとしても、それが かえって心地よかったのか、彼はまた うとうとと まどろみ始めた。
無礼な振舞いで、娘の顔を潰す父親。
気分を害してはいないことを示すために、瞬は、ぽんぽんと軽くナターシャの背を叩いた。
「ナターシャちゃんのパパのお名前は?」
「パパのお名前? お名前は氷河ダヨ」
「氷河? フランスの名前じゃないね」
「ウン。パパは 半分ロシア人で、半分 日本人ナノ。それで、日本のスパイの疑いをかけられて、ロシアからボーメーしてきた ボーメーキゾクなんだって」
「半分 日本人……そうだったんだ」

人と人は、思いがけないところで繋がっているものである。
日本は 現在、昨々年の義和団の乱に乗じて 満州への侵攻を始めたロシアとは緊張関係にある。
日本人の血が入っていると言われても 到底 信じられない金髪碧眼。
そんな彼も、“血”や“人種”を起因とする理不尽な偏見で、故国を捨てることになった不運な人であるらしい。
女手一つで自分を育ててくれた母と二人で異国に亡命し、その異国で愛する母を失ったら―― ひとかたならぬ彼の嘆きもわからないではない。
だが彼は 一人ではない。
彼には、ナターシャがいる。
この父子が このままでいていいはずがないのだ。

瞬は、長椅子で再び眠りに落ち始めた氷河の右腕を掴み、そのまま宙に持ち上げた――身体ごと持ち上げようとした。
氷河の腕が身体の重みに耐え切れず 悲鳴をあげ、腕の主は、腕が身体から引き裂かれる直前の痛みに驚き、覚醒した。
「な……なんだっ !? 」
彼の商売道具を壊すつもりはないので、すぐに手を離す。
長椅子に横になっていた氷河の身体は、椅子に座る態勢になり、瞬は彼に乱暴を責められる前に、彼に礼儀正しく自己紹介を始めた。

「はじめまして、氷河さん。僕、日本からの留学生で、瞬といいます。ナターシャちゃんに、絵のモデルにスカウトされまして」
「スカウト?」
「ええ。ナターシャちゃんが あんまり健気で可愛らしいものだから、断れなくて、図々しいとは思ったんですけど、こちらまで お邪魔してしまいました」
「なに?」
すべては、パパの身を案じるナターシャが一人で始めたことなのだ。
娘の苦労も知らず、ナターシャの父は 怪訝そうに眉を ひそめる。

床に転がっている酒の壜を拾いあげ、瞬は わざと音を響かせて、それを テーブルの上に立たせた。
「これじゃあ、ナターシャちゃんが泣くのも仕方ありませんね」
「ナターシャが泣く――?」
「ナターシャちゃんに心配かけちゃいけません。亡くなった人を思うことが悪いとは言いませんけれど、それは、生きているナターシャちゃんの世話をしてあげてからにしてください。あんな しわくちゃで 汚れの目立つドレス、いくら高価なドレスでも、ナターシャちゃんは きっと恥ずかしくて悲しい思いをしていますよ」

ナターシャのために、後半は 氷河の耳許で囁く。
初対面の人間の耳打ちに、氷河は ひどく戸惑ったようだった。
戸惑って、言い訳を始める。
「ナターシャの世話は、通いのナースメイドが――」
「あまり勤勉な子守りさんではないようですね。お酒を飲んでばかりで、自分の仕事振りも見てくれない人が雇い主なのでは、誰も真面目に働きませんよ。おそらく 他の使用人も監督不行き届き。掃除も まともにしていない」
「……」

氷河は 金を稼ぐ方専門。
家事全般、家計全般を、彼は母親に任せきりにしていたのかもしれない。
その分野の管理能力が、彼には全くないようだった。
絵を描くことができなくなったことで、彼は、見事に無能力者に なり果ててしまったのだ。
故国から持ってきた財産や、亡命後フランスで絵描きとして稼いだ金がどれほどあろうと、適切に管理されていない財産は あっというまに底をつく。
ナターシャの父は――経済、健康 両面の危機管理能力が欠落していた。

「ナターシャちゃんは、自分は亡くなった方の代わりになれないから、代わりが務まる人を探していたんだそうです。パパに元気になってもらいたいから、一生懸命、マーマの代わりにパパの絵のモデルが務まる人を探していた。大切な方を亡くして、おつらい気持ちはわかります。でも、子供の父親なら、こんなに可愛らしいお嬢さんに 心配をかけちゃいけません」
「……」

氷河は悪い人間ではないようだった。
感情の振れ幅が大きいだけで。
あるいは、人を深く愛しすぎるので、その人を失った時に受ける打撃が 一般人より はるかに深く大きく激しいだけで。
反省はしているが、強く叱られたくない子供のように、氷河が ぼそぼそと言い訳を始める。

「ナターシャの世話は、ナースメイドへの指示も含めて、ずっとマーマが……母が」
「そのお母様は もういらっしゃらないんです。あなたが ちゃんとしなければ――」
「お姉ちゃん。パパを叱らないで。パパは悪くないノ。パパはナターシャのために、ちゃんと……!」
氷河は悪い人間ではないのだ。
彼は、彼の母親だけでなく、ナターシャにも深い愛を注いでいた。
だから ナターシャも パパのために奔走し、パパを庇い、守る。
パパを庇うナターシャの声は、だが、途中で途切れた。
パパを庇いたくても――彼女のパパは “ちゃんと”してくれなかったのだ。

パパを大好きなナターシャのために、瞬は それ以上 氷河を責めるのはやめた。
代わりに、
「僕、しばらく、毎日 こちらに通わせていただきます」
と宣言する。
「使用人は みんな 遊びに行っているようですから、とりあえず今日は 僕が お掃除と洗濯と ナターシャちゃんの洋服のアイロンがけをします」
「へっ」
氷河が素頓狂な声を上げて、瞬を見る。

瞬自身、自分はいったい何をしているのだろうと、自分自身に呆れていた。
だが、とにかく、ナターシャを“ちゃんと”してやらなければ、このまま 自分の部屋に帰っても、気掛かりで勉強も手につかないような気がするのだ。
幸い、一人暮らしの留学生は、掃除も洗濯もアイロン掛けもできる――慣れている。
そして、帰りが遅くなっても 心配する家族はいない。

「ナターシャは、お姉ちゃんのお手伝いをするヨ!」
貴族の令嬢にしては、気さくな提案である。
嬉しそうに協力を申し出てくれたナターシャに、瞬は 早速(氷河の許可を得ず)、床に転がっている酒瓶を集めるよう指示を出した。
「了解ダヨ!」
ナターシャが、すぐに働き始める。
ナターシャは、その父親より 余程 有能で、はるかに働き者だった。


掃除道具のある場所、洗濯場、ナターシャ自身のものは もちろん、パパの着替えのありか、シーツやタオル等の保管場所。
氷河が知らないことを、ナターシャは何でも知っていた。
氷河は何もできずに、二人の周囲をうろうろしているだけだったが、瞬はナターシャと力を合わせて、当座の生活に必要なフロアの掃除とナターシャの着替えの洗濯、アイロン掛け、シーツと布団カバーと枕カバーの交換までを済ませた。

ナターシャが何より喜んだのは、自分を綺麗にすること――入浴――で、どうやら彼女は何日も風呂に入っていなかったらしい。
お風呂で はしゃぐナターシャを見て、瞬は ますます 氷河を“ちゃんと”させなければならないという思いを強くしたのである。






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