美貌を守るための橘の実の菓子で 思わぬ回り道をしてしまったデストールの用件。
それは、
「消滅した冥界が、ものすごい勢いで復活してるんだけど~」
というものだった。
冥界と 冥界にいた死者たちの魂が消失し、いずれは自分も無に帰すのだろうと思っていたのに、一向に消える気配がない、
いったいなぜ? と怪訝に思い、冥界のあった場所に赴くと、そこでは、ビッグバンで宇宙が誕生・膨張した時さながらの勢いで、冥界が再生されつつあったというのだ。

「黒核の発動で消滅した冥界が、ですか? でも、冥界の消滅はハーデスの力をもってしても止められなかったと……」
「ええ。ハーデスが 冥界の消滅を止めようとしたのかどうかは わからないけど、ともかく、その冥界よ。その冥界が復活しつつあるの。それで、それがハーデスの力によるものかどうか、アンタにならわかるかと思って、確かめに来たんだけど」
消滅したはずの冥界が、なぜ再生し、復活しつつあるのか。
その理由がわからないことには、冥界の復活を喜んでいいのかどうかすら わからない――と、デストールは言った。

死んだ身で、わざわざ生者の世界にまで 冥界復活の原因究明にやってきた先達に、残念ながら、瞬は、
「冥界のことで、デストールさんにわからないことが、僕にわかるはずがありませんよ」
という答えを渡すことしかできなかった。
冥界が復活しつつあることさえ、瞬は たった今まで知らずにいたのだ。
「でも……」
「でも? でも、何? 何か思い当たることがあるの?」
冥界の復活に瞬が気付いていなかったのなら、それはハーデスの力によるものではない――と、デストールは判断したようだった。
少なくとも、ハーデスが全力を傾けて行なった仕業ではない――と。
そして、瞬も デストールのその判断は正しいだろうと思っていた。

「ハーデスでなくても、冥界を必要としている人は大勢いますから……。ハーデスが全く無関係ということはないでしょうが、冥界を復活させた中心的力は、人間の思念というか、願望というか、そういうものなんじゃないでしょうか。冥界は、ハーデスより むしろ 人間にこそ必要なもの。だから、冥界復活は ある意味、必然のこと。そう、僕は思うんです」
「人間の力? 人間が冥界を蘇らせてるっていうの? その人間って、生きてる人間? それとも 死んだ人間?」
ハーデスでなければ、人間。
瞬のその推察には、デストールも異論はないらしい。
むしろ彼は、その可能性に今まで思い至らずにいた自分を訝っているようだった。

「生きている人間も 死んだ人間も……。これは僕個人の、どんな根拠もない ただの推測ですけどね。たとえば、トリスタンとイゾルデや ロミオとジュリエットみたいに、この世では結ばれず、死後に結ばれようとして死んだ恋人同士人や、先に亡くなった家族や友人との あの世での再会を願っている者たち。たとえ死んでも――死ねば、自分の大切な人に再び会えると思えばこそ、人は安らかに自分の命を終えられるんです。そんな人たちの思いの力が、冥界を蘇らせているんじゃないでしょうか。ハーデスと関わりがあったから言うわけではないんですが、冥界は 神より人間たちにこそ 必要なものなんですよ。ハーデスは、人間たちに そのための場を提供し、管理していただけ。肉体が失われ、生前の地位も身分も立場もすべて消えて、死後に人間は 真の意味で平等になる。現世では諦めるしかなかった平等の理想が、人が ただの人になる冥界では実現する。冥界は、考えようによっては、人間の理想郷なんです」
アテナと対立しているハーデスが統治している限り、もちろん、アテナの聖闘士たちにとって 冥界は理想郷ではない。
だが、アテナの聖闘士たちは、死後 そこでどんな扱いを受けようと後悔しないだけの覚悟ができているのだ。

「地位や人種や性別での差別がなくなるのはいいけど、代わりに生前の行ないで差別されるようになるのが冥界よ。プラス、ハーデスの価値観と好み。中身だけで評価されるのが怖い人間も多いんじゃないかしら。特に、現世で善行もせずに 偉そうにふんぞりかえっていたような輩は」
「そんな人たちの中にも、死後は 魂も残らず無に帰すという考えを恐れる人、認めたくない人は多いでしょう」
「地獄で、血の池に突き落とされたり、針の山を歩かされたりする方が、無になるより ましってこと?」
「そう考える人は少なくないと、僕は思います。人間の、存在への執着は強い」
「苦と無。究極の選択ね」

デストールは人間の価値観の多様性を否定する気はないようだった。
二度三度と、瞬に頷く。
「でも、それなら アタシ、冥界の様子を見に行ってみようかしら。ハーデスの仕業だったら、あの冥界の中に入っていくのは まずいかもしれないと思って 躊躇してたんだけど、そういうことなら まずいこともまずくないことも起きそうにないし。以前の黄泉比良坂には、桃の木と橘の木があったのよ。不老長寿の実が成る桃の木と、不老不死の実が成る橘の木。アタシの美貌の素。復活してるのなら、アタシの美貌維持のためにも――」

死んだ人間に肉体はない。
当然、美貌もない。
『死者である あなたには、桃の実も橘の実も無用の長物だろう』という常識論を、だが、瞬は口にすることができなかった。
デストールは、そんな常識が通じる人間ではないのだ。
彼は なにしろ、死者のくせに 子供の菓子を盗み食いするような男なのだから。

そして。
瞬が常識論を口にできなかったのは、デストールが非常識な存在であるということの他に、もう一つの事情があった。
その事情というのは他でもない。
デストールに大切なお菓子を つまみ食いされてしまったナターシャが、
「橘の木も桃の木も、もともとは冥界にあったものなのよ。それを人間が地上に持ち帰って植えたの。だから、不老不死の実、不老長寿の実と言われるようになったんでしょうね」
と得意げに 御託を並べるデストールに触発されて、
「ナターシャも、冥界に行く! ナターシャは、タチバナの実が木になってるのを 見たいヨ!」
と言い出したのだ。

それを聞いて慌てたのは、ナターシャのパパとマーマだった。
「冗談ではないぞ、冥界になど!」
「ナターシャちゃん。冥界は、深い穴だの、広くて渡ることのできない黒い河だのがあって、すごく危険な場所だらけなんだよ。ナターシャちゃんは そんなところに行っちゃ駄目だよ!」
一度は冥界に引きずり込まれそうになった身。
それを、水瓶座の黄金聖闘士、乙女座の黄金聖闘士、蟹座の黄金聖闘士、山羊座の黄金聖闘士、蠍座の黄金聖闘士、更には白鳥座のアイザックの力まで合わせて、地上世界に引き留めた命。
そのナターシャが自分から冥界に赴くなど、アテナの聖闘士たちをコケにしているも同然の行為である。

だが。
「パパ。ナターシャは、タチバナの実が木になってるのを見たいノ」
ナターシャに 大きな瞳で じっと見詰められるなり、
「いや……しかしだな……」
氷河は弱腰になった。
氷河に任せてはおけないと、瞬が身を乗り出したところに、
「その子はもう安全よ」
デストールが脇から口を挟んできた。

思いがけない援軍に、ナターシャは大喜びである。
「さすが、パパとマーマがいなかった昔の聖域一の美形ダヨ!」
誉め言葉としては微妙なところだったが、ナターシャはもちろん、いかなる他意もなく、心の底から褒めていた。
パパとマーマがいない頃のことなら、誰が どこで いちばんでも、ナターシャ的には文句はない。
何より、ナターシャには、
「ナターシャは どこに行っても大丈夫なんダヨ。だって、パパがナターシャを守ってくれるカラ!」
という確信があったのだ。

「ナターシャ……」
パパへの絶対の信頼。
生きている人間が冥界で安全なはずがないのに、氷河は結局、ナターシャのおねだりに負けてしまったのだった。






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