梅雨に雨が降らないと、夏の水不足が懸念される。 梅雨に雨が降るのは よいことなのだ。 城戸邸の客間の窓から見える庭の紫陽花の花の鮮やかな紫の、生き生きした様子を見て、瞬は そう思った。 梅雨の季節は、温かいお茶に ほっとできる。 梅雨の雨で困るのは、外で遊びたいナターシャの がっかりした顔を見なければならないことだけだった。 今日は城戸邸にオデカケというので、ナターシャは大喜び。 今は別室で、魔鈴とジュネに“女を磨く”方法を教えてもらっている。 その方法が どんな方法か、どんなものなのか、氷河が いくら訊いても、ナターシャはそれを氷河に教えてくれなかったが。 「沙織さんのパートナー紹介サービス業の目的は、結婚することではなく、子供を儲けることのようにも思えるんですが、沙織さんはアテナの聖闘士の結婚自体は奨励していないんですか? 普通の結婚相手紹介サービス業との違いはわかるのですが……精子バンクでは駄目だったんですか?」 シュラに泣きつかれるまで、氷河と瞬は沙織のパートナー紹介業のことを全く知らなかった――知らされていなかった。 氷河と瞬には、生活を共にするパートナーがいて、育てている子供もいるので、沙織から その話が来なかったこと自体は、自然で当然のことだとは思う。 しかし、沙織のパートナー紹介業は 結婚相手紹介業ではないので、その目的はアテナの聖闘士の婚婚ではない。 目的が子供を儲けることなのであれば、精子バンクと人工授精のサービスを提供する方が はるかに効率的である。 それは沙織もわかっているだろう。 にもかかわらず、沙織は そうしなかった。 精子バンクより はるかに非効率なパートナー紹介などというものを始めた。 それはいったい なぜなのか。 女神アテナとしては 情が厚くて優しすぎるが、グラード財団総帥としては 果断で合理的。 それが沙織という女性である。 そんな沙織が この事業(趣味)を どちらの立場で始めたのか。 彼女の真の目的は何なのか。 それが 瞬には、わかるようで わからなかったのである。 否、もしかしたら、わかっているが、わかりたくなかったのかもしれない。 『精子バンクでは駄目だったのか』という瞬の問い掛けへの沙織の答えは、 「駄目ね。もちろん、駄目」 だった。 そして、 「私がしようとしているのは、結婚相手紹介サービス業ではなく、精子バンクでもなく、結婚相手紹介サービス業と精子バンクの中間というところかしら」 と、独り言のように呟いた。 「目的に 子供を儲けることが含まれているということは、沙織さんには、アテナの聖闘士たちの戦闘能力に秀でた遺伝子を残したいという お望みがあるんですか?」 沙織の目的が それなら、瞬は むしろ気が楽だった。 だが、もちろん そうではない。 沙織は答えにくそうに、彼女にしては勢いのない口調で――頼りないほどの口調で、 「というより、むしろ 結婚してほしい――いいえ、結婚という形は取らなくてもいいから、幸福な家庭や家族を持ってほしい……のかしら」 と答えてきた。 「でも、私の聖闘士でいるということは 常に危険と隣り合わせな職業に就いているようなものだから、それを隠して家庭を持つというわけにはいかないわ。それに、私の聖闘士たちは 最初から家庭を持つことを諦めているところがあるでしょう。家庭を持つことどころか、恋をすることすら諦めているきらいがある」 「沙織さん……」 沙織のこの事業(趣味)の目的は、やはり それであるらしい――“アテナの聖闘士の幸せ”。 人間社会で、俗に“普通の幸せ”と言われているもの。 それは同時に、沙織が持っていないものであり、もしかすると 沙織が永遠に手に入れられないものであるかもしれない。 沙織の目的を知らされただけで、瞬の胸は痛んだ。 瞬が醸し出す重苦しい空気を吹き飛ばすように、沙織が明るくビジネスライクになる。 「もちろん、当人の承諾は得ているのよ。紫龍や、あなた方のように特定のパートナーがいる人は、最初から候補者リストから除いている。女性陣は全員、候補者リスト掲載不許可だったわ。“遠慮”ではなくて“積極的に拒否”と言われたわね。そして、聖闘士たちの お相手側は――結婚で自分のキャリアを中断したくはないけれどパートナーは欲しい人、財産を継いでくれる子供を必要としている素封家の令嬢などが多いわね。彼女たちに共通しているのは、理想が高いこと。だから、彼女たち自身の好条件にもかかわらず、これまで一人だったと言っていいくらい」 その高い理想に応えられるだけのメンバーを、こちらは揃えている。 そう言わんばかりに、沙織は自信に満ち満ちた表情をしていた。 「双方の当事者がいいと言っているのなら、僕は意見するつもりはありませんが……」 「沙織さんのことだ。聖闘士たちを脅して――いや、何らかの策を弄して、リスト掲載を断れない状況に持っていったのではないんですか?」 氷河が、恐れ多くも女神アテナに対して命知らずなことを言うのは――言えるようになったのは――氷河にとっての“怖い人ランキング(=機嫌を損ねたくない人ランキング)”で、ナターシャと瞬に押され、沙織が3位にランクダウンしてしまったからだった。 「人聞きの悪いことを言わないで」 沙織が、氷河の疑惑を一蹴する。 しかし、氷河の疑惑は、『人聞きが悪い』などという言葉ごときで消えるものではなかった。 「シュラさんから、先日のお見合いの話を聞いたんですが……。シュラさんも候補者リストへの掲載を承諾していたんですか?」 沙織のパートナー紹介サービス業の候補者リストに掲載されることの意味を正しく理解していたなら、シュラは絶対に 掲載を許可するはずがなかった。 瞬に疑いの目を向けられた沙織が、両の肩を軽くすくめる。 「シュラは、アパートを借りる際の保証人になってあげたの。この私が。その代償として、候補者リスト掲載の許可を取り付けたわ。そうしたら すぐに最適のお相手が見付かって、会ってもらったのよ」 「脅しです。それ」 暴力暴言を用いて 威圧的に迫ることだけが脅しではない。 沙織の脅しの手法を聞いて、瞬は呆れた顔になったのだが、当の沙織は一向に悪びれなかった。 「脅すくらいでないと、私の聖闘士たちは 自分の幸福追求に前向きになってくれないでしょう。最初から、そういう出会いも幸せも求めない」 『誰に禁じられたわけでもないのに』 アテナの声なき声が、瞬には聞こえた。 「シュラのお見合いの相手は、六菱商事のCEOの一人娘なの。お父様の個人資産は数百億。35歳と、少し薹は立っているけど、教養もあるし、品もあるし、ただ健康とは言い難いのね。一般的な基準で 素晴らしい美人というわけでもない。そのせいか、引っ込み思案で……。でも、こっちも いつ死ぬかわからない男なわけだし。私が人物と経済力を保証すると言っても、あちら様にしてみれば、シュラは得体の知れない外人よ」 だが、見合いの席に着いて、シュラの様子を見るなり、令嬢はシュラに ぼーっとなってしまったらしい。 そして、シュラは 5分もしないうちに中座。 「数分間、文字通り、まさに見合っただけでは さすがに無理かしらと思ったのだけど、令嬢はシュラを とても気に入ってくださったの。あんな素敵な人の妻になれたら、あんな素敵な人の子供を持つことができたら、結婚などできなくても、大切に育てると言っているわ。30代半ばまで、まともに恋をしたこともないような人だから、彼女は シュラを夫として自分に縛りつけておけるとも思っていないのよ」 「それは恋ですらない、ただの憧れなのではありませんか」 ほとんど確信に満ちて告げた瞬に、沙織は ほぼ躊躇なく首肯した。 「そうね。恋を知らずに歳を重ねた女性の前に、突然、精悍な美青年が夫候補として現れた。――彼女が、もしかしたら これは一生に一度だけの運命の恋かもしれないと浮かれてしまっても、それは不思議なことではないわ。結婚はせず 子供を残すことができれば、それが彼女には いちばんいいことなのかもしれないわね。一緒に暮らして幻滅することもないわけだし。一生に一度のロマンス。実らなくても、魅力的な人がいい」 何を、どういう状況を、幸福と思うかは 人それぞれである。 彼女が 伴侶として一生 生活を共にしてくれる人を欲しているのなら、彼女は そういう人を求めるべきだろうが、彼女は そんな人を求めているわけではないのだ。 一生 心の支えにできる魅力的な人との、束の間のロマンス。 それがあれば、一生 満ち足りて生きていけるというのなら、それこそが彼女にとっての幸福だろう。 「彼女の人柄は保証するわよ。どこが優れているというわけではないのだけど、今時 珍しいほど、素直で善良な女性」 シュラが、その見た目通りにクールな男だったなら―― 一生の思い出になる最高のロマンスを求めている女性に束の間の夢を見せてやることができる器用な男だったなら――万事が丸く収まったのかもしれない。 それで 誰もが幸せになっていたのかもしれない。 だが、シュラは――シュラに限らず、人は誰も――幸福に通じる道とわかっていても、その道を歩むことを選ぶとは限らない。 人は誰も、幸福になることを望んでいるはずなのに。 なのに、人は 幸福に通じていないとわかっている道を選び、歩むこともあるのだ。 「シュラさんは 吉乃さんを憎からず思っているんです」 沙織は、一瞬 瞳を大きく見開いた。 知恵と戦いの女神は、そのことに全く気付いていなかったらしい。 「そうだったの? シュラったら何も言わないから……」 「僕も はっきり言われたわけではないんですけど、多分……」 そちら方面には疎い沙織は、だが、そうと知ると、対応は早かった。 「では、彼女がシュラを運命の恋の相手と思い詰める前に、別の候補との お見合いをセッティングしなくては……。彼女の好みだと、シュラが最適だったんだけど、紫龍……というわけにはいかないし、翔龍じゃ若すぎるし……」 六菱商事CEO令嬢の好みは、黒髪で落ち着いた印象の美男子であるらしい。 沙織は、 「一般人に枠を広げることも考えた方がいいかもしれないわね……」 と、そんなことを呟きながら、シュラの次の候補の物色に 取り掛かってくれたのだった。 |