『魔法使いの弟子』。
それは、古代ギリシャの文人ルキアノスの詩に基づいて、ゲーテが書き上げたバラード(物語詩)である。
先生の留守中に、水汲みをしておくよう言いつけられた魔法使いの弟子。
怠け者の彼は、見よう見真似で先生の魔法を使い、ホウキに水汲み仕事をさせようとする。
魔法はうまくかかり、ホウキは 魔法使いの弟子に代わって 水汲みの仕事を開始。
ところが、未熟な魔法使いの弟子は、水汲み仕事をするホウキを止める魔法を知らなかったのだ。
水を貯める甕がいっぱいになっても、水を運び続けるホウキ。
家の中は水で溢れ、洪水状態。未熟な弟子は絶体絶命。
もはやこれまでと破滅を覚悟したところに、魔法使いの先生が帰ってくる。
彼は、鮮やかな魔法で、暴走する水汲みホウキを止めてくれたのだった。
『ホウキよホウキ、古ホウキ。そなたに霊力を授けて使役し得るは、ただ熟練の師あるのみじゃ』

制御できない力を使うことの危険を、『魔法使いの弟子』は教えてくれている。
地水火風等の自然の元素的な力も民衆の力も、様々な兵器も――本当にそれを有効に使うには、それを動かすことができると同時に、その動きを止めることもできなければならないのだ――と。
『魔法使いの弟子』は楽しい物語で、詩人は 正面切って読者に教訓を垂れようとしているわけではない。
それにしても、せっかく これほど優れた名作を与えられていながら、人類が その教訓を生かしきれていないことは、実に残念な事実だった。

Dズニーの『ファンタジア』の『魔法使いの弟子』パートでは、主役の魔法使いの弟子をネズミのミッキーが演じている。
パパに重なる魔法使いの弟子がネズミ――というのに、ナターシャは 不満そうだった。
不満そうに口をとがらせていた。
だが、物語が進行し、弟子ネズミが魔法を止められなくなり、家の中が水で 溢れ始めると、ナターシャは 隣に座っているパパの指を小さな手で ぎゅっと握りしめ、まさに手に汗握る状態。
どうなることかと はらはらさせられた家の中の大洪水は、魔法使いの先生(≒カミュおじいちゃん)が帰ってきて、鮮やかな魔法で消し去ってくれた。
おかげで、絶体絶命だったミッキー鼠(≒パパ)は大洪水に呑み込まれずに済み、命拾い。
ミッキー鼠(≒パパ)の無事を確認すると、ナターシャは ほうっと長く大きな安堵の息を吐き出して、パパの指を握りしめていた手から力を抜いたのである。

80年も昔に制作されたアニメーションは、80年の時が経っても輝きを失わない映像美と、素晴らしい音楽との相乗効果で、現代の高度なCG技術を駆使したアニメ作品を見慣れた現代っ子のナターシャをも、十二分に堪能させることができたようだった。
作品自体の内容やレベルもさることながら、たとえば一人の人間が石に躓いて転ぶだけの映像でも、それが自分に近しい人であれば 鑑賞者の心に及ぼす力は大きくなるもの。
絶体絶命のピンチに陥った大好きパパが ぎりぎりのところでカミュおじいちゃんに救われるお話は、ナターシャに、強い緊張感と大きな興奮と深い安堵感をもたらしてくれたのだ。

「パパも ちっちゃい頃は、ミッキー鼠みたいだったノ?」
ナターシャは外で遊ぶことのできない欲求不満を、ネズミの魔法使いのおかげで すっかり忘れてくれたようだった。
彼女の関心は、パパのちっちゃかった頃に向けられ、瞬がリビングルームのテーブルに運んできたジュースとココナツクッキーにすら、ナターシャは気付かない。
氷河の膝の上に身を乗り上げ、ナターシャはパパの顔を覗き込んだ。
降り続く雨のことも、公園に行く約束を反故にされたことも 忘れている眼差し。
氷河は目だけで笑い、彼女の視線を捉え、ごく浅く頷いた。

「家が水没するような失敗はしなかったが、夏場に修行している時、つい うっかり、花や虫を凍らせてしまったことはあったな。俺もカミュも 自分の凍気を融かす方法を知らないから、そのまま 家の中に飾っておくしかなかった」
「マーマに融かしてもらえばよかったのに」
「そうだな。瞬がいてくれればよかったんだが」

ナターシャの無邪気な提案が、氷河の微笑を切ないものにする。
ナターシャが言うように、あの頃 自分の側に瞬がいてくれたら、犯す失敗が 相当数減り、失われる命や 破壊される事物もまた 相当数減っていただろう。
そう、氷河は思った。
幼い頃の氷河の心と言動を 乱暴で乾いたものにしていた最大の要因は、孤独だったのだ。

特に何かをしてくれるのでなくていい。
すぐ傍らに瞬がいて、にこにこ笑っていてくれたなら、それだけで幼い氷河は小さな花の命も大切にしようという気持ちを抱けていたはずだった。
瞬と共にいることができなかった長い時間があるから、共にいられる今の喜びが大きいのだということは わかっているのだが、それでも氷河は 今でも叶わなかった夢を見ずにはいられなかった。






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