「パパ?」
表情を ほとんど変えないパパの気持ちを、ナターシャは、大人の保護を必要とする幼い子供の勘で鋭敏に感じ取る。
パパの気持ちが沈みかけているのを察知したらしいナターシャが、心配顔になるのを見て、氷河はすぐに自分の中の叶わなかった夢を消去した。
そして、ナターシャを見る。

「この話は、俺とカミュの話にも似ているが、実はナターシャと瞬の話でもあるんだぞ」
「エ?」
パパと暮らすようになった直後、いたずらをしてキッチンを水浸しにしたことを、ナターシャは綺麗に忘れているらしい。
彼女は、ミッキー鼠と自分の間には重なる部分など1ミリもないと言わんばかりに 不思議そうな顔をして、首をかしげた。
氷河が自分の首を逆方向に傾けると、ナターシャがかしげた首がまっすぐな状態に戻る。
氷河は そこで すかさず、魔法使いの弟子とナターシャ、魔法使いの先生と瞬の立場の類似の説明を始めたのだった。

「ナターシャが瞬の言うことをきかずに外に出て、冷たい雨に打たれて熱を出して寝込むことになったら、瞬に助けてもらうしかない。俺はナターシャを丸ごと凍らせることしかできないから、何かするわけにはいかないんだ。だが、もし瞬がナターシャを助けに来てくれなかったら――」
「ナ……ナターシャは、マーマの言うことを よくきく いい子ダヨ!」
ナターシャは 氷河の言うことの意味を、小学生顔負けの速さで理解した。
そして、中学生顔負けの機転を働かせて、強固な防御壁を築く。
氷河は ナターシャの賢明に感心し、そして 安堵もしたのである。

「そうか。なら、俺も安心だ。ナターシャが病気になったりしたら、俺もつらいし、ちゃんとナターシャを見ていなかったと、俺も瞬に叱られることになるだろう。瞬は怖いから、ナターシャも瞬の言うことを ちゃんときくんだぞ。この世の中で絶対に逆らってはいけない最強の二人。それが瞬と沙織さんだ」
それは、アテナの聖闘士の常識。聖域の不文律。
不文律なので、もちろん 明文化はされていないが、氷河は そう信じていた。
もとい、信じるまでもない。
それは、むしろ、自然に氷河の身についた生きる知恵だったかもしれない。
当の瞬にとっては、それは、常識でも不文律でもなく、もちろん 生きる知恵でもない、ただの笑えない冗談だったが。

「氷河。冗談はやめて。ナターシャちゃんが本気にしたらどうするの」
「冗談なんかであるものか。ただの事実だ。実際、聖域の誰も、おまえと沙織さんにだけは逆らわない」
「それは、逆らいたいのを我慢してるんじゃなく、逆らう必要がないから逆らわないだけです。『怖いから逆らうな』だなんて、人聞きの悪い」
ナターシャがマーマの言うことを聞いて雨の日に家の中にいてくれるようにするためだとしても、その理由が『マーマが怖いから』や『最強のマーマに逆らうのは危険だから』であってはならない。
瞬は、ナターシャが誤解しないよう 注意しようとしたのだが、幸いなことに、ナターシャは氷河のマーマ最強説を信じていないようだった。

「マーマも沙織サンも ちっとも怖くないヨ。公園に怖いフリョーさんやヤンキーさんが来た時に、怖い人たちを追い払うのは、マーマじゃなくパパダヨ」
マーマを弱いとは思わない、
マーマは、いつもナターシャやパパを守ってくれるから。
だが、ナターシャは、マーマを特別 強いとも思っていなかったのだ。
ナターシャに襲い掛かる悪者をやっつけてくれるのは、いつもパパだったから。
その上、
「パパはいっつも マーマに我儘言って、マーマを困らせてるヨ。お寝坊したり、ナターシャに甘いジュースを飲ませすぎたり、お洋服を買いすぎたりして」
という事実もある。
マーマが最強で、パパが本当にマーマを怖がっていたら、そんなことができるはずがない――というのが、ナターシャの考えだった。

実に論理的。理に適った考え方である。
だが 現実は、論理的だから正しいとは限らない。
『すべての強い人は怖い。パパはマーマを怖がっていない。だから、マーマは強い人ではない』
これは、明確に“偽”なのだ。

ところが、その一方で、ナターシャは、星矢や紫龍が『瞬が最強』と言うのを、これまでに何度も聞いたことがあった。
ちっとも怖くないマーマが最強と言われるのは なぜなのか。
それとも、『瞬が最強』は ただの冗談で、星矢ちゃんの『俺は少食だから、一度に食べる おはぎは10個が限度だなあ』のようなものなのか。
それはナターシャにとって、前々からの謎だった。






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