それぞれ 唯一の肉親が亡くなり 孤独になり、生きる気力を失ってしまった二人に、恋をさせて生きる気力を取り戻させようと、ゼウスは考えた。
一つの愛を失った人間に、別の新しい愛を。
その考えと対応は、極めて妥当で、真っ当なもののはずだった。

そんなことは朝飯前とばかりに、エロスは二人の人間の胸に黄金の矢を射かけた。
生きる気力を失っている二人は、黄金の矢で胸を射抜かれるなり、出会った人に恋をして、その恋心ゆえに 生きる力を取り戻す――はずだったのだが。
これまでは そうなっていたのだが。

エロスの矢が力を発揮しない。
これは前代未聞の事態である。
空前にして、おそらく絶後。
神と人間の世界と歴史が始まって以来の大椿事だった。
なにしろ、恋心と性愛を司る神が黄金の矢を射かけた人間が、誰にも恋をしないのだ。
黄金の矢の力より――神の力より、肉親を失った喪失感の方が――人間の心の力の方が、強く大きいというのか。

そんなはずはない――そんなことはあってはならない。
恋心と性愛を司る神が 恋心と性愛を司れなくなったら、彼は ただ無限の命を持つだけの何か。動く石ころと大差ないものだということになるだろう。
あってはならないことが起きている。
エロスは、たかが人間ごときのために、神としての力と存在意義を疑われる立場に立たされることになってしまったのだった。

慌てたエロスは、試しに、ヒュペルボレイオスの女王が氷河に恋するように黄金の矢を射かけてみたのである。
その効果は覿面。
氷河への激しい恋情の虜となったヒュペルボレイオスの女王は、副王である夫を全く顧みなくなり、一介の貧しい青年である氷河の心を得んがために、氷河をヒュペルボレイオスの王にするとまで言い出した。
同様に、エロスは、エティオピアの王が瞬に恋するように黄金の矢を射かけてみた。
その効果も覿面。
瞬への激しい恋情の虜となったエティオピアの王は、王妃を全く顧みなくなり、一介の庶民の子供にすぎない瞬を王宮の主にするために、王妃と王子を城から追放するとまで言い出した。

エロスの矢の力は失われたわけではなかったのだ。
エロスの黄金の矢に射抜かれた者は誰も、自分の中に生まれた恋情を抑えることができない。
どれほどの障害があっても、誰に反対され、誰を不幸にしたとしても、その恋を成就させようとする。
エロスの黄金の矢の力は、今でも確かに有効で 健在だった。

これは つまり、氷河と瞬という二人の人間にだけ、エロスの矢は力を発揮できないということ。
神の力が通じない人間が二人 存在するだけで、他の大多数の人間は これまで同様、神の力の支配下にあるということのようだった。


「深刻に考えることはない。エロスは射損じたんだ」
エロスの矢に 忌々しい思い出のあるアポロンが、エロスをやりこめる いい機会とばかりに、恋心と性愛の神の弓の腕を腐す。
アポロンは遠矢の神で、神々の中で随一の弓の腕の持ち主。
無論、狙い定めた獲物を射損じたことなど、これまでに ただの一度もなかった。
まともにアポロンの嫌味の相手などする気になれないエロスの答えは、
「違う」
という一言だけ。

アポロンの言うように、矢を射損じたのだったら、それはエロスにとっては むしろ喜ばしいことだったのだ。
弓矢の神が失恋ばかりしていても、彼の弓矢の神としての尊厳は傷付かない。
しかし、弓を射損じたら、彼の神としての尊厳は地に落ちる。
同様に、恋心を司る神が 弓を射損じても何の問題もない。
だが、恋心を司る神が 恋心を操れなくなったら、彼は神である資格を失うのだ。

「既に心に決めた相手がいて、元からあった恋心が エロスの矢の力を殺しているのではないか」
伝令神ヘルメスは、アポロンよりは よほど真面目に事態を憂えていた。
エロスが力なく 首を横に振る。
「あの二人に そんな相手はいなかった。そもそも生きる気力をなくしていた二人なんだ」

「時々、ネズミやアリの中に、毒への耐性を持つものが現れるだろう。あれと似たようなことが、人間にも起きているのではないか? 二人は 人間の新種なんだ」
という鍛冶の神ヘパイトスの推測には、エロスも反論の根拠を持てなかった。
荒唐無稽なようだが、それなら現状に説明がつく。
人間界に何かが起きている――人間の一部が変化しているのだ――と。

だが、本当に そうなのか。
何か見落としている要因はないか。
オリュンポスの神々が、オリュンポスの神々にしては慎重に、結論を急がない。
それは、『神の力が及ばない人間が出現している(のかもしれない)』という事実を受け入れたくないという気持ちが、彼らの中にあるからだったかもしれない。

「二人を引き会わせてみるのはどうだ? 二人の間に 何か共通項があるかもしれん。二人が出会うことで、更なる変化が生じる可能性もある。それで何かがわかるかもしれない」
「その場所、私が提供しましょう」
そう言い出したのは、知恵と戦いの女神アテナだった。
処女神であるアテナは、恋心や性愛を司るエロスとは最も遠い――むしろ、対極の位置にいる神なのだが、だからこそ、エロスの神の力に動かされない人間に 興味津々でいるらしい。
「自国の女王や王に岡惚れされているのでは、どちらにしても国外に避難させなければ、大変なことになってしまう」

エロスの矢の威力は(基本的に)絶大だが、“激しい恋心を生むこと”と“激しい嫌悪感を生むこと”しかできないという弱点がある。
“恋心を忘れさせること”や“嫌悪感を放棄させること”はできないのだ。
つまり、矢を射る前の状態に戻すということができない。
氷河と瞬が自国の最高権力者に愛されていることを喜び、これ幸いとばかりに 自身の栄達を図る人間なら それでもよかったが、彼等は現在 唯一の肉親を失い、喪失感に支配されて 生きる気力を生めずにいる人間である。
彼等は、権力者から押しつけられる激情に辟易し、彼等の激情から逃れることを望んでいたのだ。
この奇妙な現象の原因を突きとめたいと考えている神々にとっては、好都合なことに。






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