星矢から、氷河の不審な行動についての報告があったのは、それから数日が経った午前中 ――朝のことだった。 平日なら、会社勤めの人間は起床する頃。 今日は日曜なので、平日には できない寝坊を堪能している人間の方が多いかもしれない。 そんな微妙な時刻だった。 テレビ電話の向こうに映る星矢の姿は、見るからに起き抜け。 瞬が起床していて、氷河が就寝している時間で、なるべく早め。――を狙って、この時刻の電話になったらしい。 『おはよう』を『よっ』で済ませ、星矢は まず、瞬に氷河の現況を尋ねてきた。 「氷河、起きてるか」 「今日はまだ眠ってるよ。昨日――今日、帰ってきたのが、3時過ぎだったんだ」 「じゃあ、あのあと、1時くらいには閉店できたのかな」 氷河の店のある押上は、オフィス街というより、スカイツリーを中心とした一大観光地である。 しかし、大きな観光地には、観光客相手の各種施設に勤める会社員も多くいるわけで、そういう意味では オフィス街でもあった。 氷河の店の客は、もちろん 観光客より勤め人の方が多いのだが、観光客が全く来ないわけでもない。 そういう微妙な立地と客層で、氷河の店は、日曜は休むが、土曜の夜は営業している。 ホテルのバーとは異なり、街場のバーは、一応 定められた閉店時刻はあるにはあるが、基本的に、最後の客が帰った時が閉店時刻になることが多く、それは氷河の店も同じ。 氷河の帰宅時刻も、日によって ばらつきがあった。 昨日は、午前1時には店を閉めることができたのだろう。 閉店作業を済ませて、彼が家に帰ってきたのは午前3時頃。 土曜の夜としては、比較的 早い閉店、早い帰宅だった。 「星矢、氷河のお店に行ったの?」 皆無とは言わないが、珍しいことだったので、瞬は意外に思ったのである。 初めて氷河のバーに行った時、星矢は 店のフードメニューを見て、『ナポリタンがないー』だの『サンドイッチが軒並み 2000円から3000円って、あり得ないだろ! コンビニサンドの10倍だぞ、10倍!』だのと、滅茶苦茶 不満そうだったのだ。 氷河は氷河で、バーに来て、カクテルメニューより先にフードメニューを求めた星矢に、『うちは洋食屋じゃないんだ』と渋い顔だったが。 「ナポリタンは無理だけど、フィレステーキ・サンドイッチを奢るからって、氷河に呼ばれたんだよ。気になることがあるから、来いって。紫龍も一緒に」 「氷河に呼ばれた? 紫龍も?」 「ああ。どうせまた、ナターシャが賢すぎて困ってるとか、可愛すぎて将来が心配だとか、ナターシャの自慢話を聞かされるんだろうって思って、行ったんだけど」 「いつも、ごめんね」 「いや。ナターシャの自慢話は聞いてて楽しいから、俺も大歓迎なんだけどさ。氷河の目的は それじゃなかったらしくて」 「違ったの?」 「もちろん、ナターシャの自慢話も、本題の前振りとして、たっぷり聞かされたけどさ」 “もちろん、ナターシャの自慢話も たっぷり聞かされた”のなら、たとえ“本題”があったのだとしても、本題の方は簡単に済まされたことだろう。 つい笑みを漏らしてしまった瞬に、思いがけない氷河の“本題”が知らされる。 「瞬の夢は何だったのか、知ってるかって 訊かれたんだ。氷河は それを探るために わざわざ俺たちを呼んだみたいだった」 「僕の夢?」 あまりに意外すぎて、瞬は うっかり『それは何?』と問い返してしまいそうになったのである。 自分の夢を『それは何?』と問う人間は滅多にいないだろうし、問われた方も困るだろう。 「『地上の平和、争いのない世界の実現だろ』って 答えたら、氷河の奴、もっと別の夢があったはずだって、言い張るんだよ」 「別の夢……って、そんなのあったの?」 瞬は、今度は きっちり 声に出して 問い返してしまっていた。 自分の夢の内容どころか、その有無を、自分でない人間に。 テレビ電話のタブレット画面が、苦笑する星矢の顔を映し出す。 「例えば、アフリカの医者のいない地域や中東の紛争地域とかで、国境なき医師団みたいなことをしたくて医者になったんじゃなかったのかとか、世界の平和のために、もっと自由に 世界を飛び回って、世界を股にかけた活躍をしたかったんじゃないかとか、そんなことを 氷河は言うわけ。その夢を、おまえを日本に縛りつけ、家庭に縛りつけて、自分が諦めさせてしまったんじゃないかとか、んなことを ぼそぼそ ぶつぶつ ぐちぐちと、えんえん。フィレステーキ・サンドイッチが不味かったら、いくら寛大な俺でも、さっさと店を飛び出てたとこなんだけど、フィレステーキ・サンドイッチが馬鹿高い分、死ぬほど美味くってさあ」 美味なフィレステーキ・サンドイッチ(氷河の奢り)に免じて、星矢は、氷河の ぼそぼそ ぶつぶつ ぐちぐちに、最後まで まともに付き合ってやったのだそうだった。 『あのさ。おまえのせいで 瞬が自分の夢を諦めたなんて、そんなこと、絶対にないから。おまえが瞬を日本に縛りつけたって、何の冗談だよ。瞬は光速で動ける黄金聖闘士なんだぞ。光速って、何だか知ってるか? 1秒で地球を7周半できるスピードだぞ』 バーで愚痴を言うなら、普通、それは客の方で、バーテンダーは聞き役、なだめ役にまわるものだろう。 星矢は、フィレステーキ・サンドイッチの顔を立てて、逆に 聞き役、なだめ役を務めてやったらしい。 『うむ。星矢の言う通りだ。もし 本当に アフリカや中東で医療活動をするのが瞬の夢だったとしても――その場合には 瞬は、その地に居住しているように見せかける必要があるだろうが、それなら 瞬は その地に住んで、日本に通えばいいだけのことだからな。瞬が おまえと離れたくなくて、日本を離れることができずにいるなどということは考えられない。そもそも、瞬に限らず俺たちが 日本にいるのは、おまえのためではなく、沙織さんが日本にいるからだ』 紫龍が なだめ役を務めたのは、フィレステーキ・サンドのためではなく、五粮液酒神酒に釣られてのことだったらしい 『どんなに強い酒を飲んでも、全く顔に出ないのが怖い』という珍妙な理由で、紫龍は春麗に家飲みを禁じられているのだ。 ともあれ、星矢と紫龍は そう言って、氷河の勘違いを――勘違いだろう――あり得ないことだと諭してやったのだそうだった。 だが、氷河は、 『俺も そこまで うぬぼれてはおらん。俺と離れたくないから――ではなくて、目を離すと 俺が無茶をするとか、取り返しのつかないミスを犯すとか、アテナの聖闘士の面汚しをするとか、そういうことを心配して、それを防ぐために、瞬は日本にいるのではないかと、俺は それを案じているんだ』 と、彼らしくなく、自身を卑下するように殊勝なことを言って、大人しく星矢たちに なだめられてくれなかったらしい。 「俺、ステーキサンドだけじゃなく、泡盛トニックや泡盛モヒートなんかも、氷河の奢りで飲んでて、かなり気分がよくなってたから、つい舌が 滑らかになっちまってさ」 『ああ、でも、それはあるかもなー。おまえ一人の世話だけでも 手を焼くのに、おまえときたら、ナターシャまで拾ってきてさ。そのくせ、おまえはナターシャと遊んでるだけ、育児の責任重大な部分は全部 瞬に任せきりだもんな』 と、星矢は 氷河に言ってしまったらしい。 星矢の舌の滑らかさは、酔っている時も酔っていない時も大して変わらない。 星矢が 氷河に そんなことを言ってしまったのは、酒のせいではない。 ――と、瞬は思った。 が、思ったことを、瞬は 星矢に指摘するようなことはしなかった。 今は それよりも優先して行わなければならないことがあったから。 今 優先すべきは、何があっても通常営業の星矢に突っ込みを入れることではなく、氷河がなぜ そんなことを気にし始めたのか、その理由を探ることの方なのだ。 「ナターシャのことまで持ち出されたら、当然 氷河から反論が返ってくるだろうと思ってたのに、氷河の奴、そのまま しおれちまってさあ。俺に やりこめられて、反撃もせずに、やられっぱなしなんて、俺の知ってる氷河じゃねーし」 それで、星矢は心配になって、日曜の朝の ご注進電話になったらしい。 星矢の言う通り、それは確かに いつもの氷河らしくないことだった。 そもそも、いったい氷河は なぜ、今更、乙女座の黄金聖闘士の夢などというものを気にするようになったのだろう? 「氷河のことは、僕の方で何とかするよ。知らせてくれて、ありがとう」 瞬が そう答えると、星矢は安心したように、 「よろしく、頼むぜ。じゃ、俺、寝直すわ」 と、速やかに退場。 タブレットのディスプレイから消えた星矢の代わりに リビングルームに現れたのは、どうやら 昨夜、星矢の攻撃を受けて撃沈されてから浮上できないまま帰宅したらしい氷河だった。 |