“今すぐに”瞬の勤める光が丘病院に行っても、今日は通常の日勤だった瞬が仕事を終えて病院から出てくるまで 1時間以上の時間がある。 「瞬の仕事の邪魔をするわけにはいかない」 と氷河に言われたナターシャは、病院の門の前で パパと手を繋ぎ、そこに仕事を終えた瞬が姿を現すのを じっと待っていた。 瞬が病院から出てきたのは、日勤の定時を少しまわった頃。 以前は定刻に仕事を終えることなど ほとんどなかったのだが、働き方改革の一環で、過労死ラインの2倍の残業時間を医師の残業の上限ラインとする異常な報告書が提出されたことで、かえって医師の残業時間が問題視されることになり、少しずつ改善が見られるようになったのである。 氷河が仕事に出ている間、瞬がナターシャを預かるようになったこともあって、瞬は極力定時での退勤を心掛けていた。 瞬は ほぼ定時での退勤なのだが、どう見ても 相当前から瞬がやってくるのを待っていたように見える氷河とナターシャの姿に、瞬は驚いた。 病院の門の手前5メートル。 しっかりと手を繋いで立つ氷河とナターシャの姿を認めた瞬は、すぐに二人の許に駆け寄った。 瞬が、『何かあったの?』と尋ねる前に、氷河から、 「瞬。頼みがあるんだ」 と、用件(?)を知らされる。 それで、瞬は軽い頭痛を覚えた。 その“頼み”がどんなものなのかは知らないが、幼い子供を連れて、こんなところでずっと立って待っているなど、携帯電話が普及していなかった頃の機転の利かない子供の仕業である。 「頼み……って――。氷河とナターシャちゃん、ここで ずっと僕が出てくるのを待ってたの? 電話をくれれば、僕の方から、氷河のマンションまで行ったのに」 「パパとナターシャが 瞬ちゃんにお願いするんだから、パパとナターシャが来るのが当たりまえなんダヨ!」 ナターシャが真面目な顔で、“お願い”の作法に言及する。 礼儀としてナターシャの意見は全く正しいが、それは大人同士でのこと、幼い子供を巻き込んでまで守らなければならないルールではない。 「でもね、こんなところで 長い時間、立って待っているのは、ナターシャちゃんがつらいでしょう」 と、瞬が言い終える前に、礼儀正しいナターシャは 更に“お願い”の作法を言い募った。 「パパ、大変ダヨ! お土産のケーキ買ってくるのを忘れた!」 「ナターシャちゃん……」 氷河の“頼み”は、ナターシャに関することなのだろう。 礼儀正しく一生懸命“お願い”を聞いてもらおうとしているナターシャの様子に降参し微笑み、その前にしゃがみ込んで、瞬は彼女に尋ねたのである。 「ナターシャちゃんのお願いなら、ケーキがなくても聞いてあげるよ。お願いっていうのは なぁに?」 ナターシャの緊張を解そうとして微笑んだのに、瞬の微笑は ナターシャの心と身体を ますます緊張させてしまったようだった。 パパと繋いでいる手に ぎゅっと力を込め、唇を きゅっと引き結び、ナターシャは一度 大きく息を吸った。 そして、その息を吐き出し、彼女の大切なお願いを大きな声で告げる。 まるで、“お願い”する声が大きければ多きいほど、願いが叶う可能性も高くなると信じているかのように大きな声で、力いっぱい。 「瞬ちゃん、ナターシャのマーマになってくだサイ !! 」 「は?」 「あのね。パパとナターシャとで、いっぱい いっぱい話し合ったんダヨ。いっぱい話し合って、この世界に 瞬ちゃんより綺麗で優しくてお利口で強い人はいないって わかって、だから、パパとナターシャは、瞬ちゃんに ナターシャのマーマになってもらうことにしたノ。世界一のマーマ カクトクプロジェクトダヨ!」 ナターシャが明るい得意顔なのは、パパと計画した大プロジェクトの全容を 一人で ちゃんと説明できたから――というより、パパと一緒に秘密計画を立てることのできる自分が嬉しかったから――なのだろう。 大人に指図されるだけではない。 パパと対等に意見を戦わせ、パパと二人で計画した大切で重大なプロジェクト。 パパとの重要な共同プロジェクトを何としても成功させたいと、ナターシャは気負っているのだ。 「でも、昨日、パパが計画をミスったんだって」 「昨日?」 「うん。だから」 そのミスをリカバーするのは私。 そう考えて、ナターシャは意気込んでいる。 「よろしく お願します!」 右手は氷河の左手を握りしめたまま、空いている方の手を膝の上に置いて、あくまで礼儀正しく、ナターシャは ぺこりと瞬に頭を下げてきた。 「ナターシャちゃん……」 ミスを犯した引け目からか、はたまた、てきぱきと話を進めていくナターシャの手際の良さに圧倒されているのか、氷河はナターシャの横に デクノボウよろしく突っ立っているだけである。 「パパもお願いして! 練習したデショ!」 ナターシャに手を引かれ指示されて初めて我にかえったように、氷河が娘の指示に従う。 「あ、ああ。お願いします。ナターシャのマーマになってください」 まるで おとうさんスイッチに操られるロボットのような、仮にも黄金聖闘士に、瞬は苦笑した。 その苦笑に、涙が混じりそうになる。 「こんな……こんなことだったなんて……」 こんなこと――こういうことだったのだ。 ナターシャに初めて出会った時、それまで想像していた展開とは何かが違う――と思ってはいたのだが。 「計画ミスって、小さかった頃の僕に、未来の写真を見せたこと?」 「瞬……」 氷河の顔が強張る。 やはり、そういうことだったらしい。 瞬は、あの写真に映っていたものを忘れたことはなかった。 その意味するところは わからないのに――むしろ、わからないからこそ、忘れられなかった。 聖闘士になって帰国した日本で 氷河と再会した時、あの写真に映っていた金髪のパパは氷河だと確信した。 その上、どんどん あの写真に映っていた二人の大人に似ていく自分と氷河。 では、あの幼い女の子は誰なのか。 十中八九、氷河の子供だろう。と思った。 自分の子供だという感懐は、まるで湧かなかったから。 では、氷河の娘の母親は誰なのか。 その人は、これから氷河の人生に登場してくるのか。 『瞬、好きだ……』 でも、氷河は いつかどこかの女の人との間に、あの女の子を儲けるんでしょう? そう思いながら、氷河を振り払うことはできなかった。 『瞬。愛してる。おまえは俺だけのものだ』 その言葉を、僕を抱くための嘘だとは思わない。思えない。思いたくない。 もしかしたら、あの写真が写された頃の“未来”には、男子同士で子供を作る技術が 一般に普及しているのかもしれない。 でも、あの女の子は、僕にも氷河にも似ていない。 誰か別の女の人が 僕たちの間に割り込んでくると考えるのが、最も自然。最も ありがちで、ありふれた展開。 『瞬。おまえだけだ』 氷河の愛を疑うことは難しい。 氷河には、僕を裏切って他の誰かと二股をかけるなんて、そんな器用なことはできない。 だから、僕と氷河は、いつか決裂するんだ。 恋し合う者同士としては。 『おまえ以上に俺の愛を理解できる人間も、許してくれる人間も、受け入れてくれる人間もいない』 氷河。そんなことはないよ。 氷河はいつか、僕じゃない誰かと出会うんだよ。 氷河が、戦場で、小さな女の子を、拾ってきた…… !? あの時――初めてナターシャちゃんを見た時の驚き。 初めて氷河に好きだと言われ、初めて氷河を好きだと感じた時から ずっと抱いていた破局の予感は何だったのかと、いっそ 氷河を宇宙の果てにでも投げ飛ばしてやりたい衝動にかられた。 僕が、その衝動を実際の行動にしなかったのは、ひとえに、氷河をパパと慕うナターシャちゃんのためだったんだよ。 |