そうして、私と創造主の、互いに互いを憎み合う者同士の戦いが始まった。
伴侶は手に入れ損なったが、代わりに私は敵を手に入れた。
いつも―― 一瞬たりとも私のことを忘れない敵が、私にはいる。
何という幸福だろう。
それは途轍もなく悲しい幸福だったが、幸福であることには違いない。
もちろん、相変わらず、私は 誰にとっても恐怖の対象で、すべての人間にとって忌むべき存在だった。
だが、私には敵がいる。
愛してくれる者がいなくても、敵がいてくれるなら その方が、孤独でいるよりずっと、私は嬉しかった。

追いつ追われつ、北の果て。
互いがいなければ孤独な私と創造主は、おそらく死に場所を探していたのだ。



川幅が広いこと、流れが止まっているかのように緩やかなこと、森の木の種類が違うことを除けば、その家は ドナウ川の岸の森で見付けた老人の家にそっくりだった。
シベリアの森の中の一軒家。
死に場所を探して こんな北の果てまで流れてきたはずなのに、飢えは満たしたくて、私は その家に忍び込んだんだ。
ドナウ川流域と違って、付近に村はない。
木こりや猟師が たまにやってくる山小屋の類とばかり思っていたのに、その家には住人がいた。

「どなたですか?」
私に そう尋ねてきたのは、こんな辺鄙な場所で暮らしているにしては小綺麗な軽装の、美しい女性だった。
いや、男性か?
そのどちらなのかは判別できないが、ともかく美しい人間だった。
まだ若い。
十代、二十代 ――とにかく若い。
私とは正反対の若く美しい人間が、扉の前に立つ私を見て――私は当然、その美しい顔が嫌悪と恐怖に支配されて歪むことを予感した。
むしろ期待した。
その期待の9割近くが諦観でできていたが。
『この美しい人も、私の姿を見ただけで、私を嫌い、憎むだろう』と。

だが、その人が 次の瞬間、私に見せてくれたものは笑顔だった。
素晴らしく優しい微笑。
美しい人間の笑顔が、こんなにも 人の(?)胸をときめかせるものだったなんて!

「森で道に迷ってしまったんですか? おなかがすいているみたいですね。今、うちにあるのは、パンと野菜スープと 魚の燻製と――」
その美しい人は、私が口を開く前から、戸口の右手にある扉から入った部屋――そこが食堂 兼 厨房らしい――の木の卓の上に パンが入った籠と 食器を並べ始めた。
私は 確かに空腹だったので、美しい人の察しの良さと手際の良さは、大層 有難かったが。

この人は、私が怖くはないのだろうか。
この人は、私の醜さに嫌悪感を抱かないのだろうか。
出された食事を がっつくように平らげながら、私は混乱していた。
混乱し、怖くて、美しい人の目を見ることができない。
私が ついに その人の目を まともに見ることになったのは、出された食べ物を すべて食べ終え、『ありがとう』を言わなければならなくなった時。
恐る恐る顔を上げ、その人の顔と目を、私は初めて まじまじと正面から見詰め――そして、息を吞んだ。

その人が美しいのは、顔立ちだけではなかったんだ。
その人は、普通の人とは何かが違っていた。
瞳が素晴らしく澄んでいて、この人が 私と同じ世界を見ているとは 到底 思えなかった。
その人が、私と同じ世界を見ているなら、その瞳は汚れ、濁るはずだ。
この世界には 残酷で 偏見に満ちた恩知らずな人間しかいないのだから。
なのに、この人の瞳は清く澄みきっている。

この人は、私と違う世界を見ているんだ。
私は そう確信した。
つまり、この人は、あの森の老人と同じように 目が見えないのだと。
だから、この人は、私を見ても恐れず、驚かず、嫌悪の表情も浮かべない。
何かにぶつかったり、躓いて転んだりもしないので、とても そうは見えないが、それ以外に考えられない。
生まれた時から目が見えければ、見えない生活に慣れて、躓いたり転んだりすることもなくなるだろう。

私は、ほっと安堵した。
私の醜さを見ることのできない人の前でなら、私は 普通の人間でいられる。
私は、
「ありがとうございます。おかげで、命拾いしました」
と、美しい人に礼を言った。

美しい人は 嬉しそうに微笑んで――私は、醜さを嫌悪し 美しさに価値を置く人間の気持ちが初めてわかったような気がした。
この人の美しさが、素晴らしく澄んだ瞳によって至上のものと感じられることもわかった。
心の優しさ清らかさが、この人を一層 美しくしているんだ。
美しさとは、そういうものだ。

この人の前でなら、私は普通の人間でいられる。
もしかしたら、これから一生 そうなることを期待した私の希望を打ち砕いたのは、この家の もう一人の住人の声。
美しい人は、森の老人とは違って、この家で一人暮らしをしているわけではなかったんだ。
樫の木の扉を開け、食堂に続く扉を開け、私がいた部屋に飛び込んできたのは、小さな小さな女の子だった。

「マーマ! ナターシャ、スグリの実が いっぱい生っているところを見付けたヨ! 籠を持っていかなかったから、ポケットに いっぱい取ってきたヨ!」
部屋の中に駆け込むのと、収穫の報告を両方 急いで済ませたかったらしい その少女は、自分のしたいことを 両方 し終えてから、見知らぬ怪物が自分の家の食卓に着いていることに気付いたようだった。

小さな女の子 ――椅子に掛けている私の4分の1くらいの背丈しかない小さな女の子が、顔を上向けて、
「お客サマ? いらっしゃいマセ!」
と挨拶してくる。
この子も 瞳は澄んで美しいが、目が見えていないということはないだろう。
身長が違いすぎて、私の醜い顔が よく見えないのだろうか。
もし そうだとしても、この体格差は威圧的に感じられるだろうに。

「君は――」
「ナターシャダヨ! ワタシはナターシャ!」
「ナターシャ……」
この子は親に愛されて、名前をつけてもらえたのだ。
私と違って小さくて可愛いから。
私のように醜くなければ、それは当然のことだ。

「ナターシャちゃんは 私が怖くないのか?」
「ドーシテ?」
「私は とても大きいし、傷だらけだし」
「ナターシャも傷だらけダヨ。ナターシャは怖くないヨ」
ナターシャちゃんは そう言って、ピンク色のサラファンの裾や白いルバシカの襟元を広げて、私のそれと同じように 身体の部位を繋ぎ合わせた縫い傷を見せてくれた。
ナターシャちゃんは、ナターシャちゃんが言う通り、傷だらけだった。
ただ、顔に傷がないだけで。
“ただ、顔に傷がないだけ”は大きな違いなのかもしれないが、それにしても、おそらく命の作られ方は、私とナターシャちゃんは同じだったのだと思う。

小さくて可愛いから、この子は 人造人間でも、人に受け入れられ、愛されるのか?
いや、そういう単純なことではないのだろうか。
この美しい人――ナターシャちゃんはマーマと呼んでいた――の目には、私の姿もナターシャちゃんの姿も見えていないはずだから、この人にとって 姿の美醜は もともと意味のないもので――そもそも、この子を作った この子の創造主は誰なんだ。
この子の創造主は、この子を愛したのか?

明るく元気なナターシャちゃんを見て、私が あれこれ思い悩むことになったのは、私の孤独と不幸の原因を確かめるためだった。
それは、私の醜さのせいなのか、私の創造主が愛情というものを持ち合わせない人間だったからなのか、人間全般が冷酷な生き物だからなのか。
私は、その答えを知りたいと熱望していたんだ。
正答がどれであっても――その答えがわかっても――それで 私が幸福になれる道が見付かるわけではない。
だが、私の醜さ、私の創造主の非情、人間全般の冷酷――以外の答えがあれば、もしかしたら、私が幸福になる道も見い出せるかもしれないではないか。
第四の答えは、私には思いつかなかったが。

「ね、おじちゃんだって、ナターシャを怖くないでショ?」
食卓の椅子に膝立ちして、大真面目な顔で尋ねてくるナターシャちゃんに、どう答えたものか、私は悩んだ。
もちろん、怖くはない。
私はナターシャちゃんを恐れてはいない。
しかし、『だから、ナターシャちゃんが 私を恐れないのは当然だ』という結論は、私には素直に受け入れられる結論ではなかったんだ。

「怖くはないが……」
散々 逡巡して、私が もごもごと歯切れの悪い答えを ナターシャちゃんに返そうとした時。
「なんだ、こいつは」
三人目の人物が登場。
いったい この家には何人の住人がいるんだ。






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