冬の太陽が完全に沈みきった頃、警察官立ち寄り所に指定されている瞬たちのマンションに、地域安全センターの警官が 様子を見に来てくれた。 ――それは つまり、ナターシャが見付かったという連絡が警察署に入らなかったということである。 氷河の気が立っている理由を瞬に耳打ちされた警官が、気の毒そうに眉根を寄せたのは、彼もまた 小さな子供の父親だからのようだった。 動物園の檻の中を うろうろするクマのように、落ち着きなく部屋の中を歩き回っている氷河の様子を見て、『そんなことをしても何にもならないのに』と呆れていた星矢は、こういう時は 動物園のクマになる氷河の方が一般的で、そんな氷河に呆れる自分の方が同情心を欠いた人間なのかもしれないと、自身の感性を考え直すことになったのである。 「犯人からの連絡がないから 身代金目的の誘拐ではない――とは限りませんよ。誘拐犯が 単に こちらの電話番号を知らないだけということもあるかもしれない。計画的な犯行ではなく、公園でのコンクールを見て、衝動的に 誘拐を思いついたのなら、犯人は 身代金を要求しようにも、連絡先が わからなくて 連絡できないわけですし」 ナターシャ自身が目的の誘拐に比べれば、身代金目的の誘拐の方が まだまし。 ――とは、警察官という立場上、はっきり言うことはできないのだろうが、彼が言っていることは、つまり そういうことだった。 “そういうこと”に、実は、氷河だけでなく瞬も同意していたのである。 ナターシャ自身が目的の誘拐に比べれば、身代金目的の誘拐の方が ずっとまし。 子供の父親でもあるらしい警官同様、それを 声に出して言うことはできなかったが。 「そうだった時のことを考えて、万一 誘拐犯が光が丘病院の方に連絡を入れてきたら、すぐに こちらに知らせてくれるよう、病院の方には 頼んであるんですが……。ナターシャちゃんは、僕と氷河のスマホのナンバーを刻んだペンダントをしているんです。ですから、電話番号がわからないせいで 連絡が来ないということは、ちょっと 考えにくいんです」 万一 迷子になったり、予期せぬ事故に巻き込まれてしまったりした時は、そのペンダントを近くにいる大人の人に見せて、『ここに連絡してくれれば、ナターシャのパパとマーマが お礼をします』と言うように、言ってある。 誘拐犯が 身代金の請求先がわからずに手間取っているということは 考えにくかった。 光が丘病院にも、瞬の携帯電話、氷河の携帯電話にも、自宅の固定電話、自宅のパソコンにも――外部からの連絡は、一切ない。 その状況が意味するところは何なのか。 考えたくないことを考えないために、動物園の檻の中のクマの真似をしていた氷河が、いよいよ臨界点に達しそうになった時。 氷河のスマホが、電話の着信を知らせる曲を歌い始めた。 ナターシャが喜ぶので、曲は“ビー玉びーすけの歌”。 その明るく軽快な曲は、場を和ませるどころか、見事な場違い振りで 室内の空気を凍りつかせてくれた。 電話が、誘拐犯からのものではなく(未登録番号からの電話や 非通知設定での電話ではなく)、氷河の雇用主であるところの蘭子からのものだったので――氷河は 一瞬 その電話に出ないことを考えたようだった。 今は、仕事のことよりナターシャの身の安全の方が プライオリティが高い。 だが、ナターシャの行方を探すのに蘭子の力を借りることを考えたのだろう。彼は、思い直したように 電話に出た。 電話を無視せずにいて、正解だった。 蘭子からの電話は、膠着状態に陥っていたナターシャ行方不明事件を、良くも悪くも動かしてくれるものだったのだ。 「あ、氷河ちゃん? アタシ。ナターシャちゃんは、おうちにいるわよね? お店の留守電に、変なメッセージが入ってて……いたずらだとは思うんだけど――」 いたずらだとは思ったのだが、万一のことを考えて、蘭子は、氷河に店の留守電に残っていたメッセージを 氷河に伝えることにしたのだそうだった。 そして、彼女からの電話によって、誘拐犯の目的が “医者の娘の身代金”ではないことが 判明した。 |