氷河の店 ヴィディアムーは、日曜が定休日である。
蘭子が 今日、休日の店を覗いたのは、冷凍庫の買い替えを計画中だったので、その下見のため。
氷河の店にある冷凍庫は、蘭子が友人から譲られた20年物。そろそろ調子が悪くなってくる頃なのに、氷河が何も言ってこないので、確認のために店に寄ったのだそうだった。
そうしたら、店の固定電話に留守電が入っていて、それが どうやらナターシャ誘拐犯からのもの。
まず仰天し、次に 内容を聞いて いたずらと判断し、最後に万一のことを考えて、氷河に電話を入れてきた――という話だった。

「ボイスチェンジャーで変えられた声だから、誘拐犯が男なのか女なのかもわからないわ。わかるのは、オネエじゃないってことくらいね」
「氷河の店に連絡が来たってことは、医者の娘を狙った身代金目的の誘拐じゃなかったってことか。怨恨の線が出てきたな」
瞬なら人の恨みを買うことはないが、氷河なら その可能性も考えられる。
そう決めつけて、星矢が呟く。
氷河が こめかみを引きつらせ、瞬は、そんな時間すらも惜しいとばかりに早口で、誘拐犯からの留守電を聞かせてくれるよう、蘭子に頼んだ。
蘭子から、いかにも元警官らしい事得が返ってくる。

「ヴィディアムーの留守電の記録媒体は、SDカードなの。パソコンに取り込んで、瞬ちゃんのパソコンに 音声データを送るわ。本来なら 明日の夕方に気付いていたはずの電話でしょ。向こうも油断して、のんびり構えてるはず。焦らないで」
蘭子の落ち着きぶりから察するに、彼女は、ナターシャの身に切実な危険は迫っていないと考えているのだろう。
蘭子の余裕のある態度は、瞬たちの気持ちにも、少しばかりの余裕と安堵をもたらしてくれた。

ナターシャの身に切実な危険は迫っていないと、蘭子に判断させた 誘拐犯からの留守電。
蘭子が瞬のパソコンに送ってくれた その音声データは、なんと、
「パパ、マーマ。ナターシャダヨ。ナターシャは元気ダヨ。誘拐犯さんの言うことを聞いてネ!」
という、明るく元気なナターシャの声で始まっていた。
その前振りに続いて、ボイスチェンジャーで加工した、ある意味 ギャグとしか思えない誘拐犯の声。
「娘を返してほしければ、店に飾ってあるマッカラン50年を渡せ。受け取り方法は追って指示する」
2、3秒の間を置いて、再びナターシャの、
「パパ、マーマ。ナターシャは元気ダヨ。だから、心配しないデネ! じゃあネ、またネ!」
で、留守録音声データは終わっていた。

「……」
「……」
「……」
「……」

『何だ、これは?』と、声に出して問う者がいなかったのは、その場にいる すべての人間が 『何だ、これは?』と思っていることが、その場にいる すべての人間に わかっていたからだったろう。
誘拐犯より、誘拐犯に誘拐された子供の方が長く喋っている脅迫(?)電話。
氷河、瞬、星矢、そして、その場に居合わせた警官の四人は、ある者は眉をひそめ、ある者は首をかしげ――ともかく彼等は全員が、今一つ 深刻な気分になることができずにいた。
おそらく蘭子も、今の瞬たちと似たり寄ったりの気分でいたのだろう。
彼女の余裕(に感じられたもの)は、言い換えれば、“キツネに摘ままれた気分”だったのだ。

心の底から深刻になれない状況下で、誘拐犯の要求を聞いた四人は、それでも少しは青ざめる二人と、全く意味がわからず 首をかしげるだけの二人に分かれた。
前者が氷河と警官で、酒飲み。
後者が星矢と瞬で、ほぼ下戸。
という、二つの陣営に。

酒飲みチームの警官が、同じく酒飲みチームの氷河に、
「氷河さんのお店に マッカランの50年があるというのは事実ですか」
と問う。
「ある」
氷河の短い答えに、警官は瞳を見開いて――彼はかなり驚いたようだった。
「店の棚に無造作に置いているんですか?」
「いや。特殊なクリスタルの金庫に入れてある。開けることができるのは、瞬だけだ」
「特殊な金庫ですか? 開けるのは、カード? それとも、暗証番号ですか?」
「秘密だ」

瞬だけが融かすことのできるフリージングコフィンの金庫である。
あの無色透明の金庫は どれほど高い技術を持った金庫破りにも開けることはできないと、氷河は絶対零度並みの自信を持っていた。
「僕だけが開けられるんです。開け方を知っていると、氷河が飲んでしまうでしょう?」
「なるほど」
他の誰にも――氷河自身にも開けられない金庫の存在を疑う警官に そう説明してから、今度は瞬が、自分よりは酒のことに詳しいらしい警官に問うたのである。

「高価なお酒があるということは知っているつもりですが、人間一人の身代金になるほど、価値あるものなんですか? マッカランって、ワインでもブランデーでもない、ウィスキーの銘柄ですよね?」
瞬の質問に答えてきたのは、警官ではなく氷河の方で、問題のマッカランは どうやら店の売り物ではなく、氷河個人の所有物であるらしかった。

「当たり前だ。ウィスキー保険にも入っている。ナターシャの学資保険のつもりで、手に入れたんだ。蘭子ママの顔で、2000万くらいにしてもらった。現時点で3000万くらいにはなってる。これからも 値はどんどん上がるだろう」
「3000万? お酒1本が?」
「去年、クリスティーズ社のオークションで、マッカランの60年物が1億7000万で落札された。俺にしてみれば、酒は、美術品より確かな投資先だ。美術品以上、金以下というところだな」
「……意外なところで堅実派というか、父親の責任を果たそうとしていたんだね、氷河」

真に堅実な父親は、娘の学資を酒で用意しようとは考えないだろうが、それを用意しようと考えたこと自体が、お世辞にも家庭的とはいえない氷河にしては、地に足がついた行為である。
氷河の堅実なパパ振りに、瞬は つい感心してしまった。
氷河らしからぬ堅実さより、マッカランに驚いているらしい警官が、そこに口を挟んでくる。
「では、犯人は、氷河さんの店に マッカラン50年があることを知っていた者ということになりますが……」
「うちの店の客は皆、知っていた。あとは、蘭子ママと、保険会社の営業くらいか――」

氷河は 誘拐犯からの電話によって、ナターシャ誘拐の容疑者の範囲を、ある程度 絞ることができると考えて、ナターシャ奪還に希望の光を見い出したようだったが、瞬は 逆に絶望的な気分に陥っていた。
その絶望の訳を、氷河に知らせる。
「氷河。氷河は気にしたことがないだろうけど、世の中には、バーナビとか バーログとか、バーのお客さんが勝手に お店の情報をネットに登録して、勝手に評価する口コミサイトがあるんだ。お客さんが バーの店構えや内装の写真を勝手にネット上にあげて、評価するサイトだよ。バーなら、間違いなく、バックバーの写真が掲載されてる。だから、氷河のお店に 高価なお酒があることは、世界中の人が知っていたと考えるのが妥当だと思うよ」
「……」

『客が、なぜ 勝手にそんなことをする!』と、声には出さない氷河の怒りが、瞬の耳には 確かに聞こえた。
その手のサイトでは、氷河の店は 大抵 高評価を受けていて、ほとんどのコメントが『バーテンダーに愛想と愛嬌を求めさえしなければ、最高のバー』という好意的な(?)もの。
それだけに、瞬は 怒れる氷河への慰撫の言葉が思いつかなかった。
「あ、でも、身代金――身代金代わりのお酒の受け取りを宅配便でしようとする誘拐犯はいないだろうし、ナターシャちゃんを さらうことができたんだから、誘拐犯は東京都――どんなに範囲を広げても関東圏で生活している人だと思うよ。そのお酒を欲しがっていた人に心当たりはないの?」
「あれがあることに気付いたら、誰でも冗談で、『飲ませてくれ』くらいは言う代物だ。一杯 150万と言って、断っているが」
「……」

関東圏居住者に絞ってみても、容疑者を絞るのは難しそうである。
警官が練馬警察署に連絡しようとするのを、瞬は しばらく待ってもらうことにした。
蘭子から送ってもらった留守録データを再度 聞いて、一度 深く長く 吐息する。






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