天使と触れ合うと、すごく気持ちいい。
なんて言うか、身体がなくなって、気持ちよさとか、幸せな気分とかを感じる神経しかなくなったみたいに。
綺麗な目をした天使が、その胸の前に両手を差し出して、その上に俺が乗っかる。
この世界(魔界じゃなくて、普通に人間がいる方の世界)に生まれてきて、最初にマーマに抱っこしてもらった時に、俺は こんな気持ちになったんじゃないかって思う。
この人が、この世界で、俺を一生 愛して守ってくれる人なんだって確信する瞬間。
そんな気分を、俺は 天使の手の中で味わってた。
そんな俺に、俺の天使が、子守歌代わりに言うんだ。

「つらいだろうけど、亡くなった人のことは諦めて。君の亡くなったお母さんは、冥界の至福の花園で、君が君の人生を生き抜いたあとに再会できるのを待っていると思う。君は その時、自分が どんなふうに自分の人生の悲しみに打ち克ち、どんなふうに自分の人生の苦しみを乗り越えて 幸福になったのかを、お母さんに話してあげなきゃならない。そして、『よく頑張ったね』って褒めてもらうの」
温かい声、優しい手、綺麗な目で、天使は俺に『マーマを諦めろ』って言った。
残酷に、優しく、そう言った。

「君のお母さんにも、生き返って 君と一緒に生き続けたいと願う気持ちはあると思う。でも、そのために 君が何らかの犠牲を払ったり、君の人生に不利益をもたらすことになるくらいなら、それは絶対にできないと、君のお母さんは思っているよ」
「……」
「自分のために、君が悪魔に魂を売るなんて、君のお母さんには耐えられないことだと思う。君に そんなことをさせるくらいなら、自分が百回 死んだ方がましだと、君のお母さんは考える。そう考えるに決まってる。だから――」
だから、マーマのことは諦めろって?
天使の言うことは正しいって思うから、俺のマーマは きっとそう考えるって わかるから、俺は泣きたくなった。

ぷかぷかガス星雲のシャボン玉状態でよかったよ。
おかげで、俺は、俺の天使に泣きべそ顔を見られずに済んだ。
俺に触れてる天使は、俺が半べそをかいてることに気付いてたかもしれないけど。
俺は、マーマが生きてた頃、マーマの前では なるべく泣かないようにしてた。
俺が泣くと、マーマまで悲しそうな顔になるから。
でも 今、俺が 自分の泣きべそ顔を天使に知られたくないと思うのは、そんなの カッコ悪いと思うから。
天使に、すぐ めそめそする奴だと思われたくないからだ。

そんなふうに、俺にとってのマーマと 俺にとっての天使は、何かが微妙に違ってて――まあ、違ってるのが当たり前なんだけど。
だから、俺が 天使に、
「俺、おまえと一緒に、ずっと ここにいたいな。おまえは 俺のマーマと おんなじくらい綺麗で優しいから」
って言ったのは、半べそを ごまかすためと、それから テストっていうか、実験っていうか、探りを入れたっていうか、そんな感じだった。
『うん、一緒にいよう』って言ってくれたらいいなあって 期待半分。
そうそう うまくいくはずがないっていう冷静な気持ち半分。
結果は――まあ、予想通りだったかな。

「そんなことはないよ。君のマーマの方が、僕なんかより ずっと綺麗で優しかったはずだ。絶対に忘れちゃいけない。君は君のマーマに とても深く愛されていた」
そんなこと、知ってるよ。
知ってるけど、知ってるから――。
「そのマーマが死んだのに!」
元の世界に戻ったって、俺は一人ぽっちなんだ!
ぷかぷかガスのシャボン玉。
でも、俺の涙は 天使には ばればれだったろう。

「それでも、生きていかなきゃならないんだよ」
天使の手が、俺を撫でる。
「なんでだよ!」
「そのために、君のマーマは 君という命を作り出したのだから」
だったら、いつまでも一緒にいてほしかった。
俺は、そう思ったけど、言葉にはしなかった。
絶対、声に出して言ったりしてない。
俺を守るために 自分の命を投げ出したマーマに、そんな我儘をぶつけていくほど、俺はガキじゃない。
天使が、優しい吐息を漏らす。

「生きるって、花が咲くようなことなのかもしれないね。咲かずに命を終えることもできるけど、花を咲かせて、蜜蜂や蝶の命を繋ぐ糧になったり、その姿で 見る人の心を癒したり、励ましたりすることもできる。どういう生き方をするのか、それを決めるのは君自身だ。どういう生き方を選んでも、それは君の権利で、君の自由。でも、できれば、一生を生き終えたあとに、自分は幸せだったと思える生き方をしてほしい。きっと、君のマーマが望んでいることも それだと思うから」

自分は幸せだったと思える生き方、俺のマーマが望んでる生き方を。
俺の天使は、そう言った。
『みんなの役に立つ立派な生き方をしろ』って言わないとこが、天使っぽくなくていいって、俺は思った。
この綺麗な天使は、確かに自己申告通り、人間なんだろうな。
神を畏れ、隣人を愛し、行ない正しく、無欲に、謙虚に生きろ――なんて言わないとこを見ると。
綺麗な天使 改め 綺麗な人間の手は、いよいよ優しく 気持ちよく、魂の俺を包み込む。
あんまり気持ちよくて、俺は このまま死んでもいいって気持ちになった。

「きっと大丈夫だよ。僕は、君にとても よく似た人を知ってる。君と同じように、小さな頃に、大好きだったお母さんを亡くして、心に傷を負って、とても悲しんで、寂しくて、何度も挫けそうになって、でも、大好きなマーマに守ってもらった命だから、彼は懸命に その命を生きた。今も生きてる」
天使は、その友達のことが大好きなんだろうな。
その友達のこと 話す天使の表情は 優しくて、なんか 全身から“大好き”感が 溢れ出てくるみたいだった。
この天使に こんなふうに思ってもらえてるなら、そりゃあ、そいつは幸せなんだろうけど、境遇が似てるから俺も大丈夫ってことにはならないと思う。
天使の手が気持ちいい分、天使の幸せな友達の存在が癪で、俺は ちょっと拗ねた。

「どっちにしても、君は 元の世界に戻らなきゃ。詐欺師悪魔のせいで、君の魂は魔界にきてしまった。君の身体だけが、元の人間界にある。死んだと誤解されて、火葬されたり埋葬されたりしたら、君は死霊になって、ちゃんと生きることはおろか、ちゃんと死ぬことさえできなくなるからね。その意味がわかる? ちゃんと生きて、ちゃんと死んだあとに、マーマと再会することもできなくなるってことだよ」

俺の身体を火葬だの埋葬だの、誰が勝手に そんなことするんだよ!
俺は、俺の身体を火葬されたり埋葬されたりすることが嫌なんじゃなく、俺の知らない誰かに 勝手に そんなことされるのが嫌で、早く 元の世界、俺の身体の中に戻らなきゃ ――って、気になった。
その気になったことは、なったんだけど。

「俺は一人ぽっちで生きていかなきゃならないのか?」
俺は、それが嫌だった。
火葬されることより、埋葬されることより、知らない誰かに勝手なことされるより 嫌だった。
生きることが嫌なんじゃない。
マーマのいない世界で、一人ぽっちで生きていかなきゃならないことが、俺は嫌だったんだ。
それだけが嫌だった。

優しい手で俺を包み込んでた俺の綺麗な天使が、俺に そっと頬擦りしてくる。
気持ちいい。
離れたくない。
ずっと、こうしていたい。
俺は、この天使がいてくれさえすれば、他に何にもいらない。
他に誰もいらない。
俺は全身全霊で(ぷかぷかガス星雲シャボン玉状態の俺に、全“身”はなかったけど)、そう思った。
残念ながら、俺の天使には、俺の願いを叶える気は まるでないみたいだったけど。






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